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姫のお茶会♪

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

クライエントさんにもたびたびオススメしている「お姫さまごっこ」。

それは、自分で自分をお姫さまのように大切に扱うごっこ遊びセラピーで、自然に自尊心を育てることができます(詳しくはコチラのブログへ)。

ずいぶんまえから、お友だち二名も日々参加してくれていて、楽しくお姫さまごっこ続行中。音楽をされているお二人は「妙なる調べの国」と「天上の調べの国」にお住まいで、私は「癒しとやすらぎの国」です(笑)。

ふだんの呼び方も「○○姫」。メールでは「○○姫、ご機嫌うるわしゅう♡」ではじまります。

たとえ自分で自分にお茶をいれているときでも、「(侍女や執事、おつきのものが)今、お茶を用意してくれました」 ・・・ となるわけです(笑)。

これはけっこう優雅な姫気分が満喫できるし、今やあまりにも自然すぎて自分たちが姫以外のなにものでもないような気分でリアル姫になりきっています。

そんな二姫さまと三人で、お茶会をしてきました。私たちのあいだではカメリアの丘とよばれている椿山荘にて。

三人だと、スウィーツタワーも華やかです。この日は、ピーチアフタヌーンティーで、スコーンも、スウィーツも桃テイストにあふれています。

ポットサービスの紅茶は三杯分ほどあるので、二姫さまとシェアをしながらいただいたら、七種類もの違ったお茶をた〜ぷりと楽しむことができました(+ 珈琲で、おなかたぽたぽ・・・)。

三姫お茶会風景、トゥ〜ルル・ル・ル♪ 徹子の部屋風・笑( K子姫作)。

姫さまがたと楽しいひとときでした♪

 

 

連日、すごい暑さ (○´―`)ゞ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

午前七時、朝ゴハンをするカフェ(@IVY PLACE)に向かって歩いていると、ジリジリ、メラメラ、もう溶けちゃいそう。こんな夏の早朝は、ラジオ体操も苦行でしかないですよね(汗)。

汗だくで到着すると ・・・ まずは駆けつけ一杯! フレッシュジュースのサービスが。ありがたや〜♪

私は絞りたての桃をイッキしましたよ〜。ふ〜・・・。

あまり甘くないオトナのネクターで、暑いときにはぴったりです。

いつもの定番で、バターミルクパンケーキと、

玉子料理をたのむのですが、本日はプロシュートとルッコラのオムレツをチョイス。

しかし、やってきたのはなんとドデカ サンドイッチ!(汗・暑さのあまり文字までまともに読めず・・・)

しっかりいただき、エネルギーチャージしました!

帰りはさらに炎天下。ほんとに近所なのに、身のキケンを感じる暑さです。工事やら配達やらセールスやら ・・・ お外でお仕事のみなさま、どうぞくれぐれもお気をつけくださいね。

 

 

気づきの日記「その騒音、どこからやってきたの?!」

夜中の1時すぎごろになると、たびたびバイクのエンジン音がして、数分ハデに「ドドドドド!!」とふかしていたかと思うと、「バリバリバリッ!!」と破裂音のような爆音とともに走りさってゆくのです。

うるさ〜〜い(怒)☆  とくに、こんな熱帯夜つづきで寝つけないでいるときには、「この音のせいで眠れないじゃないか!」とバイクの音にすべてのイライラをぶつけたくなります。

どうやら近所で夜中まで仕事をしてるおにいさんが、路駐してあるバイクで帰途につくらしいのですが、ここまで無意味に音を大きくする心理って、いったい?!・・・ (汗)

それはやっぱり、「注意をひきたい」「目立ちたい」につきます。それも、なまじっかな音じゃダメで、ここまで大きな音にしないと「誰も自分に気づいてくれない」という見捨てられ信念。

トシの離れたお兄ちゃんお姉ちゃんのなかで育ったため、いくつになってもおチビ扱いで、まっとうな発言権が与えられなかった ・・・とか、両親が二人とも働いていて、忙しさのあまり自分の言うことに対して真剣に耳を傾けてもらえなかった ・・・とか(他にもいろいろありますが)、そんな無力感から爆音で気をひきたくなったりするわけです。

そんな理由をイメージすると、その爆音にむかって「ハイハイ、ちゃんと気づいていますよ〜。お仕事おわったのですね。遅くまで疲れたでしょう? 今から、帰るのね。気をつけて帰ってくださいね」なんて、こころのなかで声をかけちゃったりします。

でも 、そんなことを言っても結局は ・・・ 外に見えていること、自分が目にしたり体験していることって、「必ず」や自分のなかにある思いの証であって、私と無関係ではありえないのですね。

つまり、自分のこころのなかに「隠しもっている」、無意識化して自分でも気づいていない思いを、外に見ることによって、他の人のこととして片づけているのです。つまり、自分のもっていたくない思いを「外の世界」に捨てて、知らんふりしているわけです。

そうなると ・・・ あら、イヤだわ(汗)。思いっきり音をだして声をはりあげていたのは、誰?  ・・・ 「私」ではありませんか?!(苦笑)

「私はここにいますよ! 誰か気づいてください! かまってください! そうじゃないと、存在していないように感じているんです〜(泣)」と、自分のなかで声をはりあげている存在がいるのに、その声に対して「黙れ! 女々しい! そんな声など聞きたくない」とおもいっきり無視しようとします。

その無視の結果として、「外」の出来事に見えるようなトリック(投影=こころのなかの隠された思いを外に捨てて、人のなかに見る)を使って、女々しい自分を否定しようとするわけです。

けれども、この女々しく聞こえる思いでさえも、じつは「過去」の遺物であり、自分の「本当の思い」ではありません。恥じる必要などないのですね。

しかし、それをまだ現在の思いだと勘違いすることで、恥ずかしく思い、無視して、封印して、投影します。誰か他の人のなかに見て、それを責めることによって、ずっと同じことをくり返してしまいます。それは、取り消されることがありません。

どんな思いにしても、私たちの思いにはものすごいパワーがあります。

聖書で言われているように、「山をも動かす」パワー。その思いは自分の世界に表現されて、必ず自分のもった思いをそのまま体験することになるのです。

そんな自分のパワフルさに私たちはうすうす気づいているようで、だからこそ自分の思いに脅威を感じて、その思いと正面から向き合いたくないのです。どこかで、見て見ぬふりをして、あいまいにしておきたいのです。

たとえ、それがニセモノの思いであるにしても、それを放置して、野放しにすることで、いつしかどれがホントの思いなのかわからなくなってしまいます。そうして、自分自身がその思いに騙されるということが起こります。

だから、何かに腹がたったり、動揺するときに、その出来事の「被害者」になって終わりにすることもできるし、

あるいは、怒りや動揺を、自分のなかに抑圧されて気づくことができなくなっていた思いを探求するためのアラームとしてとらえることもできます。

強烈に腹がたっているときこそ、自分のなかにその間違いがあることに気づくチャンスなのです。

まずは、「すべては私の思いの結果」であり、「これは私のこころのなかで起きていることだ」と外に見ていたことを、自分のなかに取り戻してみます。人ごとではなくて、私のなかの出来事ととして感じてみます。

すると、すぐに「あ、これはまさに私のことだ!」と気づく場合もあるし、まったく合点がいかない場合もあります。

そのときには、怒りや動揺の気持ちを掘り下げてたどってゆくことで、新たな気づきをえることができます。それはいつでも、「やだ〜! 私ったら、こんなこと信じてたの〜?」という笑っちゃう信念です。

そして、その探求を正直にして、ちゃんと気づいて受けとめてゆくと、同じことが起こったとしてももやは反応することがなく、どうでもよくなっていたりします。

あるいは、出来事自体が消え去ってなくなってしまったりします。(学びが終わったのですね!)

私の場合、気づきをえて「あのバイクのおにいさんじゃなかった! 私だったのね!」と認めたあたりから、音が消え去りました。

バイクのおにいさんがいなくなったのか、音がしないバイクに乗り換えたのか ・・・ 不明ですが、私のこころのなかのいにしえの「見捨てられ」信念が正面から見られて、手放されたので、おにいさんの存在も私の意識のなかから消え去ってしまったのでした(チャンチャン♪)。

 

 

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気づきのぷちノート「こころが貧血にならないために」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

努力して・・・頑張って・・・ガマンして、やっと手に入れたのに、達成したのに、そのわりにはぜんぜん嬉しくない、こころが満たされてない、むしろ渇いているというときがあります。

そのことに集中しすぎてすっかり孤独になっていたり、つながりを失って疲れてしまっているのです。

一方、なにも建設的なことをしていないのに、安らかな満足感を感じられたり、穏やかな平和に満たされた気持ちになることがあります。

私たちは幸せになりたいと思って頑張っているのに、なぜか目指したところにそれはやってきてくれないようです。幸せはどこに行っちゃったのでしょう?

私たちが安らかで、満足していて、平和に満たされているときって ・・・ ひとりで何かを成しとげたときよりも、じつはただ誰かとこころを「分ち合えた」「つながり合えた」という感覚があるとき。つまり、ハートが喜んでいるとき。

「個人」が何かを成しとげようとしているときって、じつは自分のなかに引きこもり、自分にしかわからない世界を作り、自分ひとりで格闘しているときです。つながり合い(愛)や分ち合い(愛)は、完全にお留守なのです。

自分にしか入れない世界に住んでいて、誰もそこにアクセスできません。

しかし、こころはひとつ。ひとつしかないので、つながりあっていないときはまるで血液が循環していない状態をつくっているようなもの。

だから、自分の世界に引きこもると、こころが貧血状態になります。具合が悪くなってあたりまえ。具合がよくないと、楽しくないし孤独を感じます。

そんなことにならないように、こころをつながり合わせて、分ち合わせて、血液をちゃんと循環させて健康にしてあげなくてはなりません。

自分のなかの愛や優しさや思いを分ち合ったり、つながり合ったりするのは、わたしたちのこころの血液を循環させるためのマッサージや温泉につかるのと同じことなのです。こころがポカポカしてきます。

わかち合うのは、たった今、目のまえにいる人でじゅうぶん。さて、何がわかち合えるでしょう? つながり合えるでしょう? そして、こころは何を感じるのでしょう?

 

 

気づきの日記「こころの温泉浴 ♨」

人生に何か問題が起きているときに、“ 問題の原因があるように見える外側の世界をいじくるのではなく、まず自分の「こころ」こそを変えなければならないのだ ” ということを理解している方は多くなってきているように感じます。

だからこそ、むかしは不安になるたびに占い師を訪れて、あれこれの占いにお金を費やしていたけれど、本当の解決にはなっていないことに気づいて(なぜなら、その問題は片づいても、また同じスタイルの問題が勃発!)、外に見えるものを変えるためにはまずはこころを変える必要がある! と、セラピーにお金をつかうことを習慣にしました、とおっしゃる方がけっこういらっしゃいます。

外のことばかりに注意を向けて、それにあわせて自分を変えようとすると、自分のパワーを失うこととなり、結局自分が何ものなのかわからなくなってしまいます。

そこで「自分のこころにこそ取り組もう!」と決めるのですが ・・・ それでもなかなか、私たちは「自分の外側」という呪縛から抜け出すことができないでいます。

その証拠に、何か不都合な問題が起きたり、イヤな気分になってしまっているときには、かならず「自分の外側の世界」に原因を探しはじめます。

仕事がうまくいかないのはこの商品への需要が少ないからだわ(需要とうのは自分の外の世界のことです)、こんなふうにイヤな気分になるのはパートナーがあんな態度をとるからだわ(パートナーの態度も自分の外のことです)、胃がムカムカするのは飲みすぎたお酒のせいに違いない(お酒ももちろん自分の外側です)。

自分のこころに原因があるとわかったはずなのに、なぜか私たちはすぐに「外」向かおうとします。

それは、私たちのエゴが「被害者」に徹するようにとしかけてくるからです。「原因はアレだよ」「悪いのはアイツだよ」、つまり「ワタシじゃない!」。

この時点で、なんとも素早くまんまと「被害者」役に身をおいてしまったので、変えるための力は自分にはありませんと宣言したことになります。変わるためには、「原因のアレ」「悪いアイツ」が変わらなくてはなりません。

でもほんとうは ・・・ 「たった今、感じている感情」、そこにこそすべての答えがあるのです。

その問題が起きたことで、いったいどのように感じているのでしょうか?

「私はこのことの結果として、怖れを感じています」「動揺を感じています」「怒りを感じています」 ・・・ と。

結果が「怖れ」であるなら、結果が「動揺」であるなら、結果が「怒り」であるなら ・・・ その原因とはいったい何でしょうか?

そこで肝心なのが、「原因と結果はまったく同じである」という考え方です。

すると、こうなります。

「あ〜、わたしは怖れを感じていたからこそ、怖れを感じるこれを見ているんだ」「あ〜、私は動揺をかかえていたからこそ、それを正当化できる動揺する出来事を見ているんだ」「あ〜、私は怒りを隠しもっていたから、それを形にして怒りを外にみているんだ〜」

結局、「たった今」感じている怖れや動揺や怒りがあったからこそ、その結果としてこころはこれを見せているのだということ。

その感情はうまく別な出来事をでっちあげて、「こんなことが起きているから、こういう気持ちになってあたりまえだよね〜」「この外の出来事のせいでこんな気持ちになったんだよね〜」と混乱した感情のつじつまをあわせようとしてそれにあったストーリーをでっちあげるのです。

そして、私たちはそのでっちあげられたストーリーのほうに気を取られることで、本当の「原因」を忘れ「被害者」をやりはじめます。

つまり、そのつらい感情を感じたときに、まんまとエゴがでっちあげたストーリーに注意をむけ、「このせいだよ!」というセリフに騙されて、被害者ストーリーに突入し、同じストーリーをぐるぐるし、本当の解決を不可能にします。

私たちは、こころが「こうだ」と信じたものを見つづけます。

そのぐらい、私たちのこころにはパワーがあるのですが、そのパワーを間違った方向、「絶対に被害者でいたい」という間違いに向かって全力で使ってしまっているようです。

かたづけるべき、取り組むべきなのは、こころのなかに存在していた「怖れや動揺や怒り」そのもの方だったのです。外に見えているものではオトリにすぎません。

まずは、シンプルに「ああ、私はこんなふうに感じているのね」と、今の気持ちをしっかりと受けとめてあげましょう。「こんなにおびえてるんだ」「こんなに動揺しているんだ」「こんなに怒っていたんだ」と、あるがままに認めてあげます。

そして、「怖れや動揺や怒り」を感じているときには必ず、ひとりぼっちの感覚があるはずです。助けがやってこないという、見捨てられているという。

つまり、安心感が、愛が、安らぎが、優しさが感じられないのです。足りないのです。

だったら、安心感、愛、安らぎ、優しさ、光をたたえている「源」をイメージしてみましょう。

源とは、安心感、愛、安らぎ、優しさ、光をなみなみたたえて無条件に受けとめてくれる存在。宇宙といってもいいし、神といってもいいし、ただ安らぎでもいいし、光でも、なんと呼んでもかまいません。

そして、その無条件の愛とやすらぎのなかへとダイブしてみましょう。

そのなかに飛びこんで、こころゆくまでひたって、自分を忘れて、ひとつになってみましょう。

まるで、無限のあたたかな愛そのものの温泉にやさしく受けとめられて、くつろいで、癒されて、溶けてゆくように。自分を解放して、安心させてあげましょう。受けとめてもらいましょう。

愛と光と優しさのなかで、おもいきりくつろがせて、そことのつながりを感じます。それとひとつになります。

本当はこの愛と光と優しさとのつながりの感覚だけで、目にするものが変わってくるのです。

なぜなら、原因 = 結果 だからです。こころのなかに安心感がなかったことこそが、ほんとうの問題の原因だったのですね。

こころの「源」温泉 ♨ へようこそ ! どうぞ、ゆっくりくつろいでいっておくれやす♪

 

 

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お野菜いっぱい夏の和食

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夏至を迎えても、まだまだ日が長いですね。でも、いきなりの猛暑攻撃で身体が悲鳴をあげています(汗)。

おいしいものをいただくと、身体は正直ものなのですぐによみがえってくれます。 和食のメニューほど身体へのおもいやりにあふれているお料理はない気がします。

涼しさを感じさせてくれるお野菜を使ったすり流しやおとうふ、みょうがや大葉はさっぱりと夏らしい味わいで、梅やトマトの酸味も食欲を刺激してくれます。

なだ万さんが創作和食をだしてくださるお店にうかがいました。

コーンの甘味がきいたトリュフのあんかけ茶碗蒸しとか、いちじくとハモの揚げものとか、こがしバター醤油のきいた甘いとうもろこしご飯とか(このご飯、給仕のおにいさんも大好き!と言われていました。私もドンブリでいただきたかった〜♡)。

暑さなど忘れておいしくいただける夏メニューでした。

いつまでも外が明るくて、しだいに暮れてゆく夏空をながめながらお夕食。お友だちとゆっくりとおしゃべりもできて、美味しく楽しく美しい癒しタイムでした。

今年の暑さは長丁場になりそうですね。とうもろこしご飯なんかは、おうちでも作れそうなので挑戦してみましょう。味つけは香ばしいお醤油とバターがポイントです!

 

 

気づきのぷちノート「自分をしめださない」

「気づきの日記」はかなり長々と書いてしまうので、気軽なぷちバージョンとして「気づきのぷちノート」をはじめることにしました。

ふと気づいたときにちょこっと書いて、サクっとアップしたいと思います。

さて、一回めは・・・「自分をしめださない」ということ。

「なんか流れにのっていないな〜」「行きづまりを感じるな〜」と感じるとき・・・

そんなときには、誰かにイライラしていないか、ぶつぶつ文句を言っていないか、勝手にすれば!って見捨てていないか ・・・ こころのなかを探ってみましょう。

たとえば、村に必要なもののすべてを汲みあげることができる共同の井戸があったとします。村人は毎日そこに集まって、わいわいと助けあいながらそれぞれにに必要なものを汲みあげています。

みんながそこにやってくるから、自然のなりゆきで毎日顔をあわせることになります。そしてお互いに手をかしあうことになります。

でも、嫌いな人、避けたい人がいたとしたら ・・・ その井戸にむかう足が自然と遠のいてしまうことになるかもしれません。井戸に近づきたくなくなるのです。

つまり、イヤなひと、嫌いなひとを自分から閉めだして「あ〜、これで安心!」って思っていたけれど、じつは流れから閉め出していたのは自分自身だったのです。

 

みんなで平等に受けとることができる流れのなかから、自分で自分を遠ざけてしまっていたのでした。

どんなときでも、こころのなかで閉め出すことができるのは「自分」だけなのですね。自分が大いなる流れから退いて、「ああ、安心した!」と強がっているだけだったのです。

自分を輪(和)のなかに戻してあげましょう。

 

 

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六月のショパン

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お友だちの声楽家、瀬尾美智子ちゃんの演奏会。

今回は、「ショパン大好き」というタイトルで、他の演奏家(ピアニストさん)たちとの共演です。

美智子ちゃんはポーランド語でショパンの歌曲を七曲。

はじめて聴いたときにはショパンに歌曲があったことにびっくりしたけれど、何度か聴かせていただいているうちにすっかり耳になじんで、「あ、これは私の好きな曲」とお気に入りもできました。

いつもながら、オール濁点つきの日常会話とうってかわって(いつもは「だがぢゃ”〜ん”」になってる)、いったんステージに立って歌いだすと「いったいこれは誰ですかっっ?!(驚愕状態)」とこころのなかで叫んでしまいます(スミマセン!褒めてるのです・汗)。

とってもやわらかく美しい歌声と乙女な表現にびっくり!!なのです。 この驚きも毎度お決まりなのですが、決して慣れることはありませぬ(笑)。

とっても素敵でした♡

聴いてみると、ショパンって六月にぴったりなのですね。もちろん、そんな選曲になっていると思うのですが、憂いがあって、心にやさしくしみいる旋律。「雨だれ前奏曲」はもちろんなのですが、「エオリアン・ハープ」もこの季節にぴったりでした。

「雨だれ前奏曲」はその昔、私がピアノを習っていたころの発表会用にあたえられた曲でした。でも ・・・ なんかジミで、眠くなりそうで、発表会にはもっとパッと華やかなワルツとかが弾きたかったのです。

抵抗しながら練習していたので上手になるはずもなく、先生に「ぜんぜん雨だれじゃないわよ」とまで言われ、ついに発表会の当日、熱を出してお休みしました(ハハ、ちからいっぱいの抵抗のあらわれですね)。ショパンのピアノは、そんなこんなが頭をよぎっていたのでした。

やっぱり目のまえでの演奏は、たくさん伝わってくるものを感じます。楽しかった! ありがとうございました♡

 

気づきの日記「誰もがもってる特別性という劣等感」

お友だちとランチをしたあと、立ち寄ったお店で目にとまったスカーレット レッドのサマードレス。

「A子ちゃん、こういう色似合うと思うけど着ないの?」と私。A子ちゃんはいつも静かめの色合いの装いなのです。この日は紺系。すると、「あまり目立たないようにしてきたんだよね〜」とA子ちゃん。

それは、さきほどのランチタイムの会話のつづきでもあるのです。

ランチをしながら、「最近、特別性ということが気になっているの」とA子ちゃん。

「特別性」とは、「私は人とは違う!」「秀でた自分でいよう」「スペシャルな自分になるべきだ」という信念。その下には「そのままでは何ものでもない自分だから、見むきもされない」という欠乏の想いや無価値観という劣等感が横たわっています。

つまり、「特別性」とは「自分は決定的に足りないのだ! 」と信じていて、生きることそのものがそれを「埋め合わせる」行為となります。

じつは、無意識のうちにで誰もがこの「特別性」の呪縛にしばられています。だから日常でとる行動の動機をよくよく調べてみると、すべてこの無意識の足りなさが自分を突き動かしていて、人とは違う自分へと駆り立てます。

人から好かれる「いいひと」でいたいと思って(「いいひと」にならないと愛されないと信じて)、無意識のうちにに無理にこにこしたり、気をつかっていたり、やりたくもないことをしていたりします。あるいは、一目おかれる「おもしろい人」でいるべきだと信じて(「おもしろく」ならないと消えてなくなっちゃうかもと信じて)、ジョークを連発したり、快活な自分を装ったり、サービス精神を発揮したり・・・。特別性には、いろいろな表現があるのです。

A子ちゃんいわく、昔から先生に目をかけてもらえる子どもだったとか(たしかに、A子ちゃんはたくさんの人のなかにいると、ぱっと目をひく天性の存在感がある方で、それこそがA子ちゃんの持ち味でもあるのです)。だから、特別な役に抜擢されたり、優遇されたり・・・。

しかし、いち目おかれることにより仲間のなかで浮いた存在となり、その結果、嫉妬やねたみをうけることになったそうな。

そのときA子ちゃんが子どもごころに決めたのが、「攻撃を受けないために、なるべく目立たない自分でいよう」ということ。その対策のひとつが、「目立つ色のお洋服は着ない。地味にしていよう」ということで、それが無意識のうちに今になってもつづいていたのでした。

「目立たないようにすること」は嫉妬やねたみへの解決策のはずだったのですが ・・・ これもじつは特別性の表現のひとつなのですね。「私はあなたたちとは違っている存在なの。だから隠しておこうかな」という想いなのです。

さきほども書いたように、この「特別性」は私たちの誰もがこころのなかに隠しもっているものです。

それは、「あなたたちとは違う境地にいる私」なので、「違っちゃっている私」は誰とも本当の意味ではわかり合えないし、つながれないし、仲間になれないし、じつは仲間であるとも思いたくないのです。

だから、愛や共感や豊かさや助けという供給が、自然とたたれてしまいます(特別性によって、こころを閉ざしてしまっているのです)。そして、知らないうちに自分の人生を孤独でシンドイものにしてしまうのです。

私たちの日頃の行動の動機をじっくりと観察してみると、必ず、「もっとステキな、バージョンアップした自分になる」という決意があるはずです。

そのために、手に入れたり、磨きをかけたり、フリをしたり、付けたしたり、いい人になったり、気をつかったり ・・・ とじつに忙しいのです。日常でとる行動のモトを正してみれば、じつはこの「特別性」ためホンソウする日々をすごしているというのがわかります。

勉強や仕事で努力することも、何かにガマンしてイイ人、気がきく自分でいることも、新しいことにチャレンジすることも ・・・ それによって、能力、成功、地位、名声(ほめられるなど)、豊かさ、美しさ、羨望などが手にはいって、みんなとは違った自分になれると信じているから。

そう考えると、私たちはどれだけあるがままの本当の自分というここちよさ、安心感からほど遠くなっていることか ・・・ これじゃ、リラックスを感じられるはずがありません。

ほんとうは、ここに存在して、ただ呼吸しているだけで十分なのに ( ・・・ え? そんなんじゃダメじゃない!って? それこそが、特別性の動機となっている不足感、欠乏感なのですね)。

たしかに、自分の20代、30代の忙しさやら、あれこれの活動性を見てみると、今おもえば「どれだけ自分に何かを付けたしたい」と思っていたのか! と笑えてきます。

あれこれ興味をもって勉強していたのも、もちろん今となっては役にたっているのですが、そんな「特別性」というヘンテコな動機がなかったら、もっとリラックスして楽しめたし、それによってもっと効率よく、人とのつながりのなかで同じことができたかもしれないな〜と感じます。

芸術の分野で活躍されているお友だちのB子ちゃんも、こんなふうに言われていました。「劣等感が頑張るエネルギーだとずっと勘違いして、一人まえになれるなら血の滲むような思いをしてもよい ・・・ と、今考えると、呪いの誓いみたいなものをたてて、もがいて、何かと戦っていました (・_・;  殆ど、ホラーです」と。

ホ、ホラー ・・・ でも、ひとごとだと思えません(汗)。

向上できるなら、成長できるなら、そのとき大切だったはずの「人とのつながり」をも犠牲にし、どんなに窓の外で美しい季節の贈りものという自然が微笑みかけてくれていても目もくれず、愛にも優しさにも背をむけて(当時、本人はそうは思っていないのですが、今思えばね!)、そして口ぐせは「それどころじゃない」「私は忙しい」「いつか時間ができたらね」だったりして、そんなふうに何かに驀進している自分に酔ってもいた気がします(苦笑)。

「劣等感」こそが、「特別性」の燃料そのものなのですよね〜。どんだけ足りないと思っていたことか・・・。劣等感を信じているぶん、特別性をニンジンにして永遠に疾走させられます・・・(汗)。

そんなこんなを客観的に見られるようになってきたとき、本当にただ息をしてずっと部屋のなかに坐っていることを自分に許せるようになってきて ・・・ 今じゃ、ただここちよく坐っているうちに、何時間もたっていたりします(まわりから心配されそうですが、幸せだったらいいじゃない・苦笑)。

「すばらしい私になる」という特別性の他に、うまくカモフラージュされていてわかりずらいのが「悲惨な私になる」という別の意味での「特別性」。

これは、嫉妬やねたみを受けることがなく、かえって愛情を無条件に手にすることができ、スルメのように長いあいだ使いものになる「特別性」なのですね。

でも、その結果、自分を「無力な被害者」「かわいそうな私」につなぎとめることになり、やってる自分ですらだんだん自分の正体がわからなくなってきます。「被害者のかわいそうな自分」という信念を強化してゆくことになり、本来の自分の絶大なちからを見失い、逆にその力を自分を弱めることに使ってしまうことになるのです。

どちらにしても「特別性」は「あなたと私は違うのよ」と、口にださずとも主張しているので、静かに世界にケンカを売っている行為にほかなりません。

そうすると、「つながる」というよりは、「つながれない」、「近づけない」「わかりあえない」ということになってしまいます。つまり、お山の大将は孤独なのです。山のてっぺんには一人しか立てないので、わかちあう相手がいないのです。

そしてなによりも、「あるがまま」につけ足すことに忙しくなると、「あるがまま」で受けとれるはずの贈りものが受けとれなくなってしまいます。つけ足すことに急がしてくって両手がいつもふさがっているので、宇宙から降り注ぐ自分のための贈りものに気づくことができなくなってしまうのです。

でも、いつでも「あ〜、こんなことを一生懸命していたのね」とエゴを満たすためにしていたことに気づいて、それを光にさらしてあげると(高い意識に一緒に見てもらうと)、まったく別な意味が見えてきます。違うストーリーにすることができます。

そのときはじめて、特別性ゆえに築きあげたものがわかちあう宝ものとなり、それをみんなとつながるために、みんなの気づきのために使うことができるようになるのです。

なんにしても、自分で握りしめていると「特別性」になってしまうけれど、それを高い意識に使ってもらうといつでも「自分と全員のための」ギフトになるのです。

そのときには、「人になんか理解できない特別な経験」が、「みんなが共感して、みんなでわかちあって、つながってわかりあえる体験」になるのだと思います。

「特別性」って空で、星どうしが「あなたよりも私の光のほうが強いわよ」「いいえ!わたしのほうがキラキラしている」と、競いあっているようなイメージですが、それを高い意識というひとつのものに委ねることで、その光同士がつながりあって、大きなひとつの光になることで、そこがぜんぶ光、ただただ光みたいになって、喜びあって広がってゆくようなイメージです。

A子ちゃんは、スカーレットレッドのドレスを手にしました。おうちで着てみたら、似合っていたって♪ (やっぱり!)

かつては「特別性」となっていた存在感が、わかちあうためにいただいた天賦の贈りものとして受け入れてもらえたのでした。(A子ちゃん、気づきをありがとう♡)

 

 

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あじさい♡

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昨日は雨ふりの一日でしたが、そんな日にぴったりのかわいいお菓子をいただきました。

あじさい。

かわいらしい金平糖をあつめると、あじさいになるのですね〜。

小さいころから、コンペイトウっていう言葉のひびきが好きでした。かたちもお星さまのようで可憐だし。はじめて「胡桃割り人形」の金平糖の精の踊りを聴いたときに、チェレスタという楽器の響きに「そうだよね〜、金平糖って音色にしたらこんなだよね」と感心したものです(笑)。

さてさて、どんなお味がするのかしら〜?