furukawaさんのブログ

気づきの日記「愛ある宅配センターになる♪」

「ハイヤーセルフに問題をゆだねたのですが、その答えがわかりません」

こんなご質問をよく耳にします。

「お願いしても答えが受けとれない」 ・・・ そんなふうに感じるとき、どうやら私たちは自分への贈りものの「受けとり方」と「受けとる場所」を正しく把握していないのかもしれません。

贈りものは、宅配センターにやってきます!

「クロネコですか、佐川ですか?」って? ・・・ どちらでもありません。それは、「あなた」という宅配所。

「私が宅配センター??」

宇宙(神さま)からの贈りものは、かならず「あなた」の宅配所にやってきます。あなたこそが、宇宙からの贈りものを受けとる中継所なのです。

そして、宅配センターの役割は、「宅配すること」、配ること!

だから、キープしておいたり、受けとっていないものを宅配しないことです。

私たちは日々、まわりの人たちに与えています。

何かをしたり、言ったり、手渡したり、思ったり、耳を傾けたりしています。それはまさに与える作業で、自分が受けとった宇宙からの贈りものをみんなにお届けする、という作業です。

受けとった人が「ありがとう!」「元気になった!」「助かった!」と喜んだり感謝したりするものを与えることもできるし、あるいは「なんだか、私なんてダメって感じちゃった」「一緒にいたら落ちこんじゃった」と意気消沈したり不十分さや怖れを感じるものを与えることもできます。

与えたものが怖れや罪悪感を覚えさせるのであれば、そのようなものは宇宙からの贈りものではないので、じつは何も届けなかったということになります。そうなると、宅配センターもカラだった、宇宙から受けとっていなかった、ということになります。

あるいは、「これは与えすぎだよね」「ここまでしてあげる必要はないよね」と、相手を値ぶみしたり、出し惜しみするようなときも、宅配センターは機能しません。

与えることによって贈りものは無尽蔵にあらわれてくるので、出し惜しみは不足を意味し、やっぱり贈りものはなかったのだ、受けとっていなかったのだ、ということになってしまうのです。

つまり、与えなかったものは、存在していないというわけです。

だから、「神さまだったら、この人に何て言うだろう?」「どんなふうに力をかすだろう?」「どんなふうに思いやるだろう?」「何をしてあげるだろう?」「どんな与え方をするだろう?」 ・・・ そんな無尽蔵な与え方によって、はじめて自分の宅配センターにはたくさんの贈りものがひしめいていることに気づくことができるようになるわけです。

表現することによってこそ、自分の奥にしまわれて自分でも目にすることができなかった贈りものを、あらためて引っぱり出して目撃することができます。

すると、「おお〜〜〜!私のなかにこんなものがあったのか!」「私にもこんなことができたのか!」「私ってこんな人だったのか!」と自分でもびっくりするかもしれません。

実際、その倉庫を開け放って、与えるという表現をするまではまったくそれがあることにさえ気づけないのです。

この倉庫はじつに無尽蔵(ドラえもんのポケットもびっくり!?)。なぜなら、神様に直結しているからです。

だから、倉庫を開け放って、気前よく贈りものの宅配サービスをすることで、宅配サービス所は贈りものであふれはじめ、その山のような贈りものに自分でもびっくりすることになります。

しかし、宅配センターに廃棄物やら、ゴミ、悪臭のするような腐敗物が集まらないように気をつけないればなりません。

そんなことにならないためには、喜ばしいもの、嬉しいもの、楽しいもの、愛のあるもの、安らぎのあるもの、うるわしいものだけをみなさまに宅配するように気をつけなければなりません。

与えるものこそが、受けとるものを決めるからです。

そして、このたくさんの贈りもののかなには、人に与えるものだけではなく、かならず自分自身への贈りもの、問題を解決するための答えも存在しているのです。

自分の手元にうるわしい贈りものがじゃんじゃん流れてくるように、愛のあるうるわしい贈りものだけを扱う宅配センターになってみましょう♪

 

 

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五月のお花♡

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お散歩していると、あちこちの庭先で薔薇が咲きこぼれています。うっとり・・・♡

この季節のお花では、芍薬も大好き♡

とてもいい香りがするのですが、こどもの頃、庭の芍薬がひらくこの季節がいちばん好きでした。(今も!)

日本画を描いていた祖母が作ってくれたお稽古バッグにも大きなピンクの芍薬が一輪だけ描かれていて、七歳ほどだった私はいつもその立派なバッグに連れられるようにして歩いておりましたっけ(笑)。

ペニンシュラホテルさんで出会った芍薬♡

 

 

気づきの日記「自分で自分を傷つけないために」

「なぜ、この人は私にこんなことを言うのだろう?私は傷ついてしまった」
「なぜ、あの人は私をこんなめにあわせるのだろう?私はすっかり混乱している」

誰もがこころのなかでこんなふうにつぶやいたことがあると思います。

「あの言葉が、この行動が ・・・ 私を傷つけた」と言うとき、私は被害者で無力であるように感じられます。 ・・・ ほんとうのところはどうなのでしょうか?

もしかすると、自分で自分を傷つけることにまんまと成功している ・・・ ということもあるかもしれません。

「自分で勝手に傷ついた?まさか!たしかにひどいことを言われたし、傷つけられたじゃない?」 ・・・ でも、同じ言葉を耳にし同じ体験をしても、それを何とも思わない人もいれば、まったく異なった解釈をする人もいます。

相手の言葉や行動じたいが凶器なわけではないのです。

「こんな意味のことを言われた」「こういう内容のことをされた」と判断したのは、誰なのでしょうか?

それは自分自身です。自分がそのように意味づけをしています。

私たちは自分が目にしたり耳にしたことに瞬時に反応し、即座に意味づけを行います。それまでは、自分にとって特定の意味は存在していません。自分が自分にとっての意味を選び、受け入れます。

ものごとはまるで、無声映画のように流れてゆきます。あるいは、セリフやト書きのない絵本と考えてもいいかもしれません。

「今見たもので、好きなストーリーを語ってください」というわけです。

こどもの頃、知能テストのなかに、玄関に立っているお母さんと雨合羽を着たこどもの絵があって、「これについて話してください」という問いがあったのを思い出しました。悲劇でも、お笑いでも、ただの描写でも、何でもつくれます。

以前のブログでも、映画のアフレコ遊びについて書きました。

イタリアでテレビを見ていたら「マジソン郡の橋」という映画をやっていたのです。さっぱり言葉がわからないので、テレビの音声を消して自分たちで勝手にアフレコをして遊んでいたのです。そうしたら、悲恋どころか間抜けなお話になってしまいました。

私たちは目にしたり耳にしたことに対して、自分の独自のシナリオをもとにその状況に意味づけを行います。シナリオにそっていればそれは「よいこと」であり、そっていなければ「悪いこと」で攻撃の対象になります。

たとえば、お母さんが「ねえ、手があいてるならそれやっといてちょうだい!」と言ったとします。

自分のスケジュールやイライラ感があったりすると、「え〜〜!何言ってるの?そんなこと自分でやってよね」と、母からの言葉は自分への攻撃だと感じられ、被害者の気持ちになるかもしれません。

一方、こころが満たされていて、また母に対して理解の気持ちがもてたら、「ああ、お母さん、忙しいのね。他に何か手伝える?」と思いやれるかもしれません。

母からかけられた言葉はまったく同じです。そのひとことに対して、抱く気持ちや反応は十人十色です。たったひとつの意味があるわけではなく、受けとった人が自分にとっての意味を決定しています。

そして、自分が傷ついたと感じるときには、自分が下した「その意味づけ」が自分を攻撃しているのです。つまり、自分が傷ついたと感じるとき、「自分を傷つけているのは自分の意味づけだ」ということになります。

「こんなことを言うなんて!」とはつまり、「私個人」が抱いているシナリオにあなたは従っていない。だから、あなたは私のために自分を改めるべき、と感じているときです。

「こんなめにあわせるなんて!」とは、「私個人」の欲しいものをあなたは与えようとしない。あなたは私に満足を与えるギムがあるのに、それがまったくできていないと批判しています。(ほんとうは、そのこととは関係なくもともと不満や不足感があったことが問題です。)

私たちはこのように腹を立てているとき、「あなた」という人は私を満たすためにいるのだ!と無意識のうちに信じています。それができないのなら、あなたは私からの攻撃を受けて当然なのだ!と。

このように信じてしまうと、じつは自分自身を不自由にしてしまいます。

なぜなら、与えるものは受けとるもの。人は自分に仕えるものだと思っていると、自分もかならず人に仕えることとなり、不自由になるからです。それが自分のルールだからです。(もとはといえば、その不自由さが慢性的な不満の原因だったかもしれません。)

自分のこころにあるそのルールが自分に犠牲をしいているので、怒りを感じるようになります。それが攻撃的な気持ちとなり、人との距離を生みだします。「私はこんなにガマンしているのだから、あなたもガマンするべき」と、同じ生き方を強要するようになってしまいます。

自分の思いが自分を攻撃して、まんまと被害者になっていた ・・・ と認めるのは抵抗があるかもしれません。

けれども、「私の選択した思いがそれをしていたのかも」と認めることは、「自分でこれをした」のだから自分には改善の余地があるということです。人が勝手にしているのなら、それは変えられません。

自分の思いが自分の幸せの邪魔をしていたのだったら、幸せの邪魔をする思いに敏感になり、それとは縁を切ろう!と決めることです。

自分を邪魔する考えとはもともと自分自身に敵対する考えなので、それがなくなるとほんとうの自分が自ずとあらわれます。ほんとうの自分とは、「愛」あり「幸せ」「安らぎ」「喜び」ともいいます。

考えは自分のこころのなかにあるものなので、それがどこに向けられていようと結局は自分に対して威力をふるってしまいます。人に対しても自分に対しても、攻撃的な考えに一つづつ気づいて、手放すことが大切です。

手放すときには自分でやろうとせずに、すべてを司り自分の面倒を見てくれているハイヤーセルフに手渡して、取りさってもらいましょう。「これは私が持ちたくない考えです。私ではないので取りさってください。(私は愛そのものなのだから)」とお願いします。

そうすることで、自分自身も人もその思いの呪縛から解放され、自由になります。日々の出来事に対して攻撃的な思いや反応がなくなれば、より自然に安らぎを感じられるようになります。安らぎのまたの名は、幸せです。

私こそが怯えていて自分のシナリオに固執していたから、何を見てもコワく感じて攻撃していたのだ、と気づくようになります。こころの重荷が癒されれば癒されるほど、目にする世界に対して怖れがなくなるので、すでにそこにあった幸せを受けとることができるようになります。

どんなときでも、自分を幸せにするのは自分の責任です。誰かがするべき、と信じてしまうと怒りを抱くことになります。

自分が幸せでいるためには、つねに被害者になりたがるエゴに気づきつつ、自分を蝕んでしまうような攻撃の思いに敏感になり、誰に対してもどこに向けても、攻撃的な気持ちをもたないと決意することが大切なのですね。

自分に対する攻撃をやめることで怖れが取りのぞかれ、安らぎという日だまりのなかでくつろいでいる自分に気づけるようになるのですね ( ・◡・ )♫♪

 

 

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おいしい和食で令和を祝う会

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少しお歳のはなれたおにいさま、おねえさま方と新元号を祝う会。

もう三十年近いおつきあい(早いものです!)。その間、ご一緒するのはきまって美しい和食。ひたすら和食です。他のお料理はいただいたことがありません。そういえば ・・・ 出会いの最初の会話が「私、和食、習っているのよ」とお友だち。「へえ〜、私も和食大好き!」だったから??でしょうか(笑)。

新緑の美しい井の頭公園のおとなりにある「金の猿」さんで。前回来たときには冬木立だったけれど、鮮やかな緑にこころも洗われるようです。

初夏を感じる前菜。ちっちゃなちまきが可愛いです。

空豆やふき、しょうがという季節を感じる食材を少しづつ、美しい盛りつけでぞくぞくと・・・(ああ、日本人でよかった♡)。

おにいさま、おねえさま方は、「もうじき八十になるのよ〜♪」と。けれど、出会いの頃とかわらず、ジョギングしたり、ソフトボールをしたり、ライフワークに励んだり、もちろんお仕事も! 私がいちばんヘタレですが、「そっか〜。こんなふうに元気にとしを重ねられるのだわ〜」と嬉しいお手本です(と、言いつついちばん不具合があるのは私!汗)。

帰りは百合の花のいい香織りに見送られて・・・。

お食事中、窓いっぱいに新緑を愛でることができたので、公園のお散歩もすっかり忘れて豊かな気持ちで家路につきました。

楽しい時間をありがとうございました♪ ますますお元気な令和となりますように♡

 

 

気づきの日記「ほんとうの自分を望むこと」

「思いがものごとをつくりだす」という、こころがもつ創造する力に気づいていらっしゃる方は多くなってきました。

そう、こころには絶大な力があるのです。

自分自身のこころの力だからといって、それを理解してうまく使えている、というわけではありません。ほぼ、すべての人が若葉マーク以前です。

こころの力は絶大すぎるので、ある意味制御不能で、もはや何がどうなっちゃっているのかわからないほどです(強力すぎる武器を手にして、それにぶんぶん振りまわされている状態です)。

だから、自分であれこれつくり出しておいてから、「私はこんなものを知らない。きっとあの人のせいじゃない?」と簡単に被害者になれちゃうのです。

それはまるで新米の魔法使いそのもので、自分の使った魔法(思い)であわや自爆しそうになり、ヨレヨレのコゲコゲボロボロ、瀕死の状態にさえなれてしまうのです。

そうなってさえも、それが自分の魔法(思い)のせいだと気づくことができません。残念なことに、あっちにいる誰かに攻撃されたに違いない!と固く信じているのです。

魔法の杖をふりまわせばふりまわすほど、自らドツボにはまる、というのが現状です。

はたから見ているぶんにはコメディちっくで笑えるけれど、当の本人にしてみれば自分のせいで生きるか死ぬかの瀬戸際まで追いつめられていることに気づけません。

少しでも気づけたら、まだ救いはあるのですが・・・。

自分の魔法(思い)は一秒もまったなしです。

自分に石つぶてを降らせるか、あるいは自分を幸せにしてくれるお望みのものが降り注いでくるのか ・・・・それを決めるのは毎瞬毎瞬の自分の思いなのです。

人に向けた思い、自分をのぞいた思いなどというものは存在しないので、思いはすべてもれなく自分自身に対するものです。

だから、攻撃や批判の思いというのは、まるで私を剣や槍でめったざしにして下さいとお願いしているようなものです。そしてツライ状況がやってきても、まさか自分の攻撃性でそうなっているとは思いもしません。

そう考えると、自分の思いの内容は、自分に向けられて嬉しいものにしなければならないことになります。

誰もがこころの力を、何かを望み、欲しいものを手にするときにはひんぱんに使います。

たとえば、「いついつまでのこれぐらいのお金が用意できますように」「この仕事が思うような結果になりますように」「この身体の不調がなくなりますように」「誰々ちゃんと仲良くなれますように」・・・

私たちがこころの力を使おうとしているときには、前提として望まない状態があるのです。何がが「足りない」のでうまくいっていない、ということをうめるためにこころの力を使っているのです。それはお金であったり、成功であったり、安心であったり、健康であったり・・・.

しかし、思いはベースにあるものを原因として、そこから結果を生み出しているので、ベースが「欠乏」「足りない」思いだと、結果も「欠乏」と「足りない」をさらに助長することになり悪循環になります。

だから、こころの力を使うときには「欠乏」をうめようとするよりも、「すべてをもっている、すべてを与えられている、その当然の権利を忘れずにいられますように」「すでに与えられているものをしっかりと見ることができますように」とお願いすることで、欠乏を見ることがなくなるのです。

源、宇宙、神とひとつである私たちは、当然の権利としてすでにすべてを与えられています。しかし、自分の間違った思いでそれを遮り、まったく見ることができなくなっています。

私たちは何を見るのかは、自分の思いで選ぶことができるのです。だったら、そこに与えれているもの、すでにあるものを見たい!と望むことができます。自分のこころがつくりだした架空のものではなく。

当然のものが見えないのであれば、ただ見えるようになることをお願いするだけです。そこには、特定の細々とした要求は必要なくなるのです(結局、特定の要求は欠乏を前提としているので、欠乏をつくりだしてしまうのです)。

「何もつけ足す必要がない、すでに完全であるほんとうの自分でいられますように」「それを見て、体験できますように 」・・・これがすでに完全である、ほんとうの自分のための正しい望み方、思いの向け方なのです。

 

 

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令和 祝賀会

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新元号のお祝い会 with つちのこプロのみなさま。

遅ればせながら、観たいと思っていた「グリーン ブック」をそろって鑑賞し、その後お食事会。

令和を元気にスタートすべく、本日のチョイスはお肉メニューで焼肉屋さんです♪

映画のあとのお食事会だと、たいていコテコテの大ツッコミ大会になるのですが、きょうはサラリと「観てよかったね♡」「うんうん♪」と素直な反応(笑)。ヘビーになりがちなデーマでありながら、ユーモアあふれるあたたかな作品でした。

そして、きょうのお食事はジュ〜ジュ〜しながら、わいわいと(話しに熱中していると丸コゲに!汗)。

サラダ、お寿司、シメは和牛のお茶漬けと冷麺。デザートはあまおうアイスというメニューでした〜♡

令和は、私たちにとってはすでに三つ目の元号。このさい五つぐらいはクリアしてみたいよねと・・・(笑)。でも、昭和みたいに一元号が六十年以上もあったらいったい何歳になるのか・・・(汗)。

つちのこプロのみなさまには、ここまでなが〜〜〜いおつきあいのなかで様々なときを支えていただきました。ほんとうに感謝、感謝です。

令和も、楽しい時間をともにいたしましょう!と思いを新たにいたしました。これからも、どうぞよろしくお願い致します ˘⌣˘♡

 

 

気づきの日記「決めたことが ・・・ 体験すること」

令和の時代の幕があがりましたね。

お正月や春分(天空での新年)、お誕生日、記念日など ・・・ 新たなスタートをきる機会が一年に何回かありますが、新元号はやはりリセット感が大きいです。

「令和」という元号にこめられた思いや、新天皇・皇后のほんわかしたたたずまいから、新しい時代はより温かで人に優しいイメージが伝わってきます。

みなさまはどんな「令和」にしたいですか?

「愛と安らぎと喜びをあちこちに目にしながら、愛と安らぎと喜びの体験をわかちあいながらすごしたい!」、私はそんなふうに感じました。

なぜなら、それが私たちみんなにすでに与えられている当然の権利でもあるから。当然のことを当然のごとく、いたるところに見て体験したい!

私たちは自分が何を見て、何を体験するのか、自分で決めています。そして、決めたものしか見ることができません。

「私が今、目にして体験していることを自分で決めた? そんな覚えはないけれど・・・」って?

決める(それを受けいれる)ということは、ほぼ無意識に行われています。「これを信じるぞ!」というはっきりとした自覚なく、するりと「自分にとって妥当だ!」と思ったことを受け入れます。

そして、その決定の力は強力です。それに変更がくわえられない限り、その決定はどこまでも延々とつづいてゆくのです。

だからこそ、今の自分にそぐわない現実が目のまえにあるのなら、「過去に受け入れたことがそのまま続いているのだわ。でも、それは今、私を幸せにしていないし、私にはもうふさわしくない」とちゃんと気づいてあげることが必要です。

その気づきが、進む方向を変えるためのブレーキです。

そして実際に方向を変えるために、それを手放して、たった今の自分が望む方向へと選択を変えなくなてはなりません(この変更だけは、意識的に行わなければならないのです)。

だから、今、あらためて決めるのです。今の私は、何を体験したいのかを!

「まあまあ幸せだった」などと誤摩化すのはやめましょう。「まあまあ」というのは存在せず、「幸せか」「幸せじゃないか」の二択しか存在しません。

何か間違ったことをこころに受け入れたせいで、その結果を受けとりつづけていたのならば、今、あらためて自分のために決めなおしてあげましょう。

私たちは自分の体験するものは向こうからやってきて、それに自分がたまたま出会うのだと信じています。が、

それは間違いです。たまたまはないのですね。そして、自分の外などというものはなく、すべてこころのイメージであり、見たいものを見ています。

私たちが目にするものは、「これを見たいのだ!」とここらがあらかじめ受け入れて、決めているものだけなのです。

だからこそ、新しいスタートにはあらかじめ「決めておく」ことが大切です。それは、令和のスタートに限らず、きょうという日のスタートに、人との出会いに、何かをすることに ・・・。

「決めたもの」こそが、見えるものであり、受けとれるもの! (*´∀`*)ノ

さて、あなたはこの新しい時代に、どんなご自分を目にしたい思いますか?

 

 

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両国のお祭り♪

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まだ四月なのに、梅雨のようにジメジメだったり、急に冷えこんだり、季節がごっちゃなこの頃でしたが、

GW に入り、ようやくそれっぽいお天気となりました。澄みわたった青空に新緑がまぶしいです。

またまた、両国にぎわい祭りにやってきました。

いろんなチャンコ屋さんの味が安価で味わえるのが魅力です。

人ごみをかきわけまず向かったのは、寺尾さんのチャンコ屋台。どこも長蛇の列ですが、ここはとりわけです。

おいしそ〜〜〜♡♡ お醤油ベースのお味がしっかりめのチャンコで、コクも深め。ゴハンが何杯でも食べられて、いくらでも大きくなれそう!(笑) たっぷり入って500円、お財布にやさしいのです。

おつぎは、霧島さん。

お店によってまったく味が違います。こちらは、ちょっとサラリとした印象。お友だちとシェアをしていただき、さらに・・・

私がどうしても食べたかった国技館名物の焼き鳥屋さんへ(国技館の地下に焼き鳥工場があるそうな)。タレのお味がおいしく、食べごたえも十分♡ けっこうな勢いで完食!

さらに、ぜんぜん甘党じゃないお友だちから国技館ソフトクリームのご所望が!場所に来るたびに買っているそうな。すでに食べる気まんまんで、完全に目がハートのご様子。

そんなに美味なら・・・と、いただいてみました。たしかにたしかに、牧場テイストでミルク味がしっかり、でもさっぱりしたおいしさです。

人も多くなってきた頃、私たちはさっさと両国をあとにし、お決まりの場所へ。神楽坂のロイヤルホスト。

チャンコのあとに、なぜかパンケーキを食べるというヘンな慣わしを敢行。それにコーヒーもじゃんじゃん飲みたい!

おいしくパンケーキをたいらげ、八杯もドリンクをいただき、長々とおしゃべりを楽しむ午後 ・・・そして陽が暮れ、きょうも楽しかったね〜♪ と満面の笑みで帰途につくのでした。

予算二千円少々という、とってもリーズナブルな休日でした〜!(笑)

 

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(複数回のセッションにつきましては、期間中にすべてをお受けになる必要はありません。)
*セッション枠がうまりしだい、終了となりますのでご了承ください。

 

【お申し込み方法】

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(セラピーページにはキャンペーン割引の表記はございませんが、割引は適応されます。)

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お茶の間シネマトーク「君の名前で僕を呼んで」

北イタリアの美しい田舎町。避暑にやってきたひとつの家族。仲むつまじい夫と妻、そして二人の愛情を一身に受けて成長する息子のエリオット。

夏のあいだ、その別荘に集うさまざまな人たち、親戚やら夫妻の友人、息子の女友達、邸で働く人々 ・・・ そして、その夏そこへ迎えいれられた大学院生の青年 オリヴァー。

十七歳のエリオットは、聡明でものおじしないオリヴァーをはじめは鼻もちならない自信家として嫌厭するのですが・・・ ともに時間をすごすうちにどんどんこころを奪われてゆく自分に気がつきます。

隠したいのに、隠せないほとばしる気持ち ・・・。ゆれ動くこころ・・・。おしよせるさまざまな感情・・・。

画面にさまざまな音があふれています。

ときにはセリフさえもかき消してしまいそうなバイクや自転車の車輪の音、鳥たちのさえずり、木々や風のざわめき、水のしたたる音、古い邸のきしむ音、グラスやお皿のぶつかりあう音、人々のざわめきや笑い声、ピアノの音色、虫の声、夜のしじま ・・・ まるでそこに自分がいるような生き生きとした感覚があります。

そして、このさまざまな音のなかで、かえって際立つ静寂。エリオットのこころの動きがありありと伝わってきます。

ここに登場するお父さんとお母さんがすごくいいのです。

大切な愛を見失ってしまったと感じている息子に、「お互いを見出せて、幸せだったじゃないか。私がついているよ」とお父さん。

「人は早く立ち直ろうとこころを削り、それによって新たな相手に与えるものも失われてしまう」(なんという言葉!)。だから、「痛みを葬りさるな。そして、感じた喜びも大切にしなさい」と。

誰もが感じたことがある、人を好きになってしまったときのはじける喜びやこころの痛み。透明があって、みずみずしさにあふれる美しい一本でした。