furukawaさんのブログ

気づきの日記「下水管から金のパイプへ」

最近お気にいりの芸人さんに、くっきーさんという人がいます。

白塗り芸、いまや大人気ですよね。わたしは、シリーズになっていた「絵描きうた大好き邦彦おじさん」がおもしろくってハマっていました。

え〜!と度肝をぬくような発想で、シュールでちょとコワイけれど、アーティスティックで、その根底にはいつも愛を感じるのです(芸というよりも、もう全体がアートになっているのですが)。

私のお友だちもくっきーさんが好きで、たびたびその話題で盛り上がっています。

先日、くっきーさんが江原啓之さんと一緒に番組に出ていたときに言われていたことは、「あなたはインスピレーションが強いし、サイキックなのね」と。だから、どんどんアイデアが浮かんでくるし、これからはもっと人々に受け入れられるようになるだろう的なコメントをもらっていました。

それを聞いて、「なるほど〜・・・そうか」 とうなってしまいました。

なぜかというと、以前、くっきーさんはどこかの番組で「自分は生まれてすぐに下水に捨てられたので、お母さんはいちばん大きなパイプだ」と冗談を言っていたのです。すごい発想ですね〜(汗)。橋の下というのは定番ですが、下水に捨てられ、お母さんがいちばん大きな土管とは(笑)。

そっか〜・・・ってみょうに納得したわけは(冗談話にしても)、いちばん大きなパイプをお母さんだと思っていたってことは、この方は最初から自分の本性がパイプだと知っていた(?) ってことかと。

どういうことか ・・・ というと、私たちは「パイプのように存在すると生きやすい」と思っているからです。

それは、どんな想い、どんな感情、どんな体験がやってこようとも、じゃんじゃん自分のなかを通過させてあげるだけであり、まったくせき止めることも(抵抗することも)、流れを変えようとすることも(コントロールしようとすることも)、不平不満を言うことも(価値判断することも)ありません。ただ、無抵抗に自分のなかを通過させてゆくだけです。

そうすることによって、ただの土管だと思っていた自分自身が徐々にお掃除されて、浄化されて ・・・ ただの土管だと思っていたけれど、「あれ? きれいになってる! 私って、金色の光り輝くパイプだったの?!」と、自分で自分にびっくりします。

ついに「自分の本性に気がついてしまったなら」ば、こんどは汚水にかわって、美しい光という恩恵やインスピレーションション、安らぎ、喜び、愛がじゃんじゃん流れこんでくるようになるのです。

そして、それを他の人たちへと流して広げてゆく作業をすればするほど、さらにパイプは太く、美しくなってゆく、というわけです。

そんなパイプのイメージがあったので、江原さんんがくっきーさんのことをインスピレーションがある、サイキックなところがあるとコメントしたのを、「なるほど〜! やっぱりパイプだと自覚していたからか」と納得するにいたったわけです(笑)。

私たちは自分のところにやってくるものに対して(体験にしろ、考えにしろ、感情にしろ)、「なんでこんなことばかりが起こるんだろ〜!(驚愕)」とか、「どうしてこんなヒドい考えをもってしまうんだろう(後悔)」とか、「こんな最悪な気持ちばかりでうんさり(嫌悪)」と抵抗し、それをどうにもできない自分を責めてしまうときがあります。

でも、ご心配なく!

みんな誰でも、こころの深いところには同じようなものをしっかりともっています。

しかし、今回の人生でお片づけをしないと決めている人は、それをチラリと目にすることもないかもしれません。でも、存在しないわけではないのです。顔をだしていないだけのこと。

もし、じゃんじゃんそういうものに出くわしてしまうとしたら ・・・ 「ああ、私はもう隠さずにこれらを終わりにしよと決めているんだ」「自分のパイプのなかを無抵抗に通して流してあげることで、もうほんとうに捨て去ろうとしているのだ」「ほんとうの自分を取り戻そうとしているのだ!」と思い出しましょう。

果敢にも、自分のパイプのなかをただ通してあげる許可をだしたのです。永遠に終わりにするために。ぴかぴかのパイプである自分を思い出すために。

そんなときには、体験であれ、考えであれ、感情であれ、自分のなかをただ行かせることによって、十分に感じきって(受けとめて)みます。

そして、十分受けとめたあとには、いったん自分が後ろに退いてみて、パイプがただそこで輝いているのを感じてみてください。自分がどいてみると、そこに安らぎ、喜び、あたたかさ、楽しさ、これで大丈夫という感覚 ・・・ が自然とあらわれます。

ちょっとでもヨイ感じをキャッチしたら、それを大切にして、しっかりと注意を注いで、受けとめてあじわってみましょう。自分のなかいっぱいに、広げてみましょう。

そしてさらに、自分とつながりのある人へと(大好きな人も、そうでない人も)、その光を広げて包みこんでしまいましょう。

光はわかちあうことで、どんどん大きく強く、いきいきとしてきます。そのともに光輝く感覚をしっかりとうけとめます。楽しみます。

もしも、何かを教えられたような気がしたら、ひらめきがあったのなら、それを行動に移してみてもいいかもしれません。行動はつねに、この感覚から起こされるものなので、この感覚とともに動くときにはいつでもびっくりするようなことが起こることがあります。

それはきっと、自分のこころのなかにあった天からのギフトにあらためて気づくことであり、その輝きを外に映し出だしてめにすることができるのだと思います。

そんなインスピレーションに従っていたら、くっきーさんのように奇才になっちゃうかもしれません♪(笑)

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

ランチ&お茶デート@代官山

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

代官山にご用でいらしたお友だちと、ランチ&お茶デート♡

ちょっとストレスのかかるお仕事直後で「胃の調子がイマイチ・・・」ということだったので、お腹にやさしいおうちゴハン風自然食レストラン rinato さんへ。

ここは女の子やら、ママやら、働く女性に人気の和食屋さん。おうちで食べてるようなあたたかみのあるメニューがいろいろ。私も、以前からよくかよっているお店なのです。

「胃の調子が・・・」と言いつつ、ふたりでまさかの揚げものチョイス(笑)。

こんもり小山のように盛られたひとくちカツでしたが、みごと完食です。身体は正直! おいしくて、好きなものだったら、喜んで食べてくれます。

さっぱりした口あたりで、サクサクとってもやわらかくておいしいひとくちカツでした。

こちらのお店は、メニューはいろいろあるし、定食もおかずや小鉢の種類、また具沢山のお味噌汁のお味噌の種類、お茶の種類までチョイスが豊富で楽しいです。お野菜もたっぷりとれます。男性でもおなかいっぱいになること間違いなし。

ちなみに、本日のランチは ¥1050 。こばらコースでしたが、満腹でした〜!

その後、カフェ アクイーユさんにてお喋りティータイム。

こちらは、2017年パンケーキ日本いちのお店でとてもおいしそうですが、本日挑戦するのはさすがにムリっ!

ケーキもおいしそうなので、ピスタチオのケーキとプリンで。

夕方になると、ハッピーアワーということで飲み物やらおつまみ系がオール ¥300 となります。ハッピーアワーではレモネードを注文してみましたが、こちらも美味しでした。

本日のお友だちとの会話は、おいしいお店情報 ・・・ でもなく、美容について ・・・ でもなく ・・・

もっぱら、「くっきー」と「聖☆おにいさん」という、まさかの話題(学生さんですかっ?!ていう感じ)。

わたしたち、芸人 くっきーさんの邦彦おじさんや白塗りがだ〜〜い好き。また、劇場版アニメの「聖☆おにいさん」(ブッダとキリストの立川アパート暮らし)にもはまっています(笑・キリストがみょうにオネエさんぽかったりして・・・)。

つっこみどころが二人ともおんなじで、おかしくって楽しいひとときでした♪

 

気づきの日記「存在するのは、ひとつの感情・ひとつの世界」

「愛と怖れ」という本(G・ジャンポルスキー著)に出会ったのは、もうかなり昔のこと。

「愛」にしても「怖れ」にしてもふだんから耳にする言葉だけれど、「愛」に対比するものとして「怖れ」があるという考えは新鮮に感じたものです。「愛」の反対側は、「憎しみ」とか「愛がないこと」だと思っていたから。

人にはたったふたつの感情しかなく、それは「愛と怖れ」だといいます。

しかし、真に存在しているものは、ただひとつのもの(ワンネス)というか、「ひとつ」とも名づけることができない「すべて」なわけですが。そうなると、「愛と怖れ」という二者は存在できず、どちらかがまがいものとなります。

すべてを支配するたったひとつの力(神・宇宙・全能性)が「怖れ」であることはありえないので、ホンモノが「愛」だとするならば ・・・ 「愛」以外のすべてはことごとくまがいものであり、存在すらしないということになります。

では、「愛」とはなにものか? というと、安らぎであったり、平和であったり、思いやりであったり、喜びであったり、豊かなこころであったり ・・・ 喜ばしい要素のすべて。それが真に存在するもの。

一方、あるように見えながらも存在すらしていないという「怖れ」とは、「愛」に分類されることがないすべてのものをいいます。「愛」でないなら、それはすべて(行為も考えも)「怖れ」なわけで、架空のものということになります。

たとえば、テレビを観ながらこころのなかでチッと舌打ちしてしまうような攻撃的な想いとか、家族と話していて「なんでこうなのよ!」とイラっとくる怒りの感覚とか、まだ起こっていないことについてあれこれ心配する怖れの気持ちとか、「やっぱり私はダメに違いない」とか「しょせんムリだわ」と自虐的に考えてしまう自己卑下とか、ただモヤモヤとした倦怠感とか、ムカムカする嫌悪の気持ちとか ・・・、全部私ではありえない、ニセモノがやっていること。

これを自分がやっているのだ思うと、さらに怖れや罪悪感がが大きくなってしまいます。なぜなら、これらはまったくコントロール不能で、いつどんなときに襲ってくるのかわからないからです。コントロールできると思うと挫折感が強くなります。

よくよく注意してみると、私たちは「怖れ」という感情にほぼ病的に耽溺していることがわかります。

すでに耽溺していることすらわからないのは、中毒になっているということ(中毒症状とは、それなしでは生きていけないのです)。

すると、ほぼ怖れと一体化していると言っていい状態 ・・・ っていうことは、存在すらしないものと一体化してすごしている、つまりヘンなものに憑衣されたがために(といっても、じつは自分がそれを握りしめているのですが)完全に占拠されたというわけです。寄生獣に完全にのっとられた状態ですね。

私たちは、存在すらしない「怖れ」になってしまったのです。

だから、この「怖れ」ときっぱりと決別しない限りは正気の自分になることはありません。正気でないということは存在しない幻覚を見続けることになり、自分に与えられている全能性からくる権利をまるまる放棄していることになります。

私たちはつねに自分の「想い」というものを「目のまえに確認する場」として世界をつくりだしています。

世界は固定的に外側にあるののではなく、毎瞬ごとに自分のこころが提示しているイメージを見ているにすぎません。すると、この「愛か怖れ」の選択が目にするものを毎瞬々々決めているのです。この「愛か怖れ」の選択こそが、自分が目にするものの明暗をわけるのです。

つまり、こころの状態にあわせて2タイプの世界があるようなものです。「愛」のこころで見る真に存在する愛の世界と、「怖れ」のこころがねつ造する存在すらしていない怖れの世界。同じ世界のなかに、愛と怖れが共存しているわけではないのですね。

そして、寄生獣が見るのは、もちろん「怖れ」です。

「怖れ」とは、批判、価値判断、自虐、落胆、後悔、罪悪感、攻撃心、自己嫌悪、無価値観、憂鬱、退屈、怖れ、優越感、特別性、苦痛、病、死 ・・・ etc、これらはまるで自分の首についている縄のごとく、「怖れ」をもつたびに自分の首をしめあげてゆくようなものです。首がしまると幻覚が見えます。

まさに、自分のこころのなかにある怖れの考えを、自分の身を呈して体験しているというわけです。その縄はしだいにどんどんきつくなり、息ができなくなって、身動きもできなくなるのですが、自分ではなぜそうなっているのかわかりません。

一方、「愛」とは、穏やかさ、安らぎ、平和、喜び、楽しさ、寛容さ、受容、信頼、慈しみ、共感、赦し、分けへだてないオープンなこころ ・・・ etc、これらを選ぶたびに首に巻きついている縄が細くなり、ゆるくなり、しまいにはそんなものなかったんだ!と解放された気分になります。

「愛」を選ぶことは、自分が囚われているという錯覚から解放されて、制限などないもともとの自由な自分を知る、もともとの自分の権利をしっかりと享受するということです。

しかし、私たちはある意味、エゴにのっとられて憑衣されているので、無意識でいると「怖れ」を選択するクセがついています。

なんせ、「個体」としての自分が生きのびて、安全でいるためには、「守る」か「攻める」かする必要があり、いつも戦々恐々としているからです。だから「闘い」の想いはエゴの定番です。

しかし、生き延びるための定番の想いを選択したはずなのに、縄は喉もとにくいこみ、かえって生き延びることを阻止する結果になります。

存在しているのはただ「ひとつのもの」、「愛」だけであるならば ・・・

私たちは自分のこころをちゃんと調教して、正しい選択ができるように教育してゆく必要があるのです。それは一回教えたらオシマイということではなく、毎瞬々々自分のこころがなにを選んでいるのかということに意識的になることです。

オイシイ匂いがすると(エゴからの呼びかけはたいていオイシイ匂いがするものです)、ついついクンクンとついていってしまう犬のような私たちですが、これをすると完全に道からはずれて迷子になります。

エゴはいつもオイシイ匂いで「こっちにゴチソウがあるよ!」とおびきよせますが、それにのってしまうと、道に迷い、ひとりぼっちで孤独になり、いっくら歩きつづけたとしても、結局そこには何ひとつなく、帰る道さえわからなくなります。

だから「愛」をえらばなかったとき、「怖れ」を選択した結果としてやってくるものは、「怖れ」なんていうなまやさしいものではなく、気がつけば「恐怖」物語、あるいは「ホラー」なストーリーなのです。

自分の見ているドラマという現実が、恐怖の様相を呈してきて、しまいには怪奇ものからホラーへ。それがエゴのもくろみです。

でも、それも全部、自分のなかで無意識のうちに着々と「怖れ」を選びつづけたまさに証なのです。

しかし、「愛」を選ぼう! と意識的になって、いちいち選びなおすことによって、こころの映しだす世界がシフトします。ほんとうの自分がもっている輝かしい恩恵に浴することができるようになるのです。それは、いわゆるすべてであるものの恩恵。

ふたつにひとつの選択なのですが、私たちは無意識のままなので、「怖れ」を選びつづけていることに気づけなくなっているのです。なので、まずは自分が毎瞬、なにを選んでいるのか意識的になることが大切です。

「素敵な自分になる」「もっと素晴らしい自分になる」と、頑張ってみても、この「愛か怖れ」の選択が間違っていると、全部水の泡になってしまうのです。

「愛」のこころには「愛」の世界が、「怖れ」のこころには「怖れ」の世界が ・・・ それぞれご案内先はまったく違った世界です。こころにそったものしか見えません。

そもそもこの選択さえまちがわなければ、「素敵な自分」になる必要もなければ、「もっと素晴らしい自分になる」必要もありません。

首にかかっている縄さえとれてしまえば、もともとそなわっている完全な自分らしさに出会うことができるのです。完全な自分になる、というのは、作ったり、くっつけたり、でっちあげたり、目指したりする種類のものではなく、もともとあるものを解き放って、そのままにしてあげる以外にはすることがないのです。

だから、私たちが注意深く取り組むべきことは、ていねいに自分の「こころを見張る」こと。

「愛」以外になっていることに気づいたら、すぐに却下して、高い意識にさし出して、こころからその感情や考えを取り除いてもらうお願いをすることです(間違ってしまった自分には、訂正はできません)。

「自分ではないものをとりのぞいてゆく」、つまり「愛」でないものを却下し続ける作業をしてゆくと、おのずと「愛」だけに気づくようになり、「愛」をとおして正しい知覚がもどってきます。それにふさわしい世界だけを見るようになります。

「愛」を通して見る、というのは私たちがおなじみの「愛」という名のフィルターでものごとを見ることではないのです。

ただひとつの存在するものを選びつづけたときに思い出すことができるほんとうの自分の記憶であり、視力であり、ものの見方。

それはどうやら、私たちが知っている「愛」の概念とは違うもので、そういう制限さえもこえたまっさらな目線をいうのだと思うのです。

今の自分の状態がどうであろうとも、ただシンプルに真に存在する思いを選びつづける努力をすることで、自分の足かせがはずれ、ラクチンになり、自由の身になり、より幸せで楽しくなるのであれば、やっぱり存在するものだけを選びつづけるという地道な作業を一瞬々々つづけられたら ・・・ と思うこのごろです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

5月のブライスちゃんちは・・・

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

ブライスちゃんち(代官山 Junie Moonさん)のまえを通るのは楽しみです。

ブライスちゃんちは、ただの着せ替え人形屋さというよりは、それぞれの作家さんたちの渾身の作品を展示販売する個展のような場となっているようです。

だから、そのときのテーマにあわせたファッションや小物だけでなく、それにあわせたブライスちゃんのヘアスタイルやメイクまでもが完成度が高いのです(ブライスちゃんのヘアスタイル講座みたいなのもやっているようです)。

今月は、アメリカンダイナーのイメージで、ブライスちゃんはローラースケートをはいたウェイトレスさんです。

Tシャツ、スニーカー姿も!(手にもっている小さなハンガーにちゃんとTシャツがかかっています)

ブライスちゃんのついたJunie Moon のショッピングバッグをもつブライスちゃん(ショッピングバッグのピンクと、ドレスと帽子のリボンの色がちゃんとコーディネートされています)。

私たちは、頭が小さければ小さいほどお洋服の着こなしが上手にできると信じていますが(バービーちゃんのように)。ところが、ブライスちゃんはほぼ三頭身です。そして、どんなお洋服も、お着物も完璧に着こなします。

顔の表情だけでなく、手や足先までしっかりと表情があるのですよね。

少しまえのディスプレイはこんなでした。ちょっとシックでクラシカルな感じです。

次も楽しみ〜♪

サイキック カフェ??

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

朝カフェ中です。きょうは、お仕事が午後からなのです。

この近所にあるカフェには、サイキックな店員さんがいます。

私がお店に一歩足をふみいれると、私のためのスコーンが自動的に温められ、マグにコーヒーがつがれ、私がカウンターに行くころには私の食べたいものがちゃんと出てくるのです。

って、なんのことはない ・・・ 長年かよっているので、私の定番メニューを用意してくれているだけなのですが(笑)。

ハタから見たら、ちょっとサイキックに見えるかもね ・・・ と笑っておりました。

でも、きょうはサイキックが通用しないフェイントをかけちゃいました。

フレンチトースト♡

新境地。おいしかったです♪

昨日は雨ザーザーだったので、いきいきとした緑をながめながらのモーニングタイム。気持ちがリフレッシュします☆

 

 

気づきの日記「私はこころのなかの住人」

「私たちのこころにある秘められた目的が、何を目にするのかを決めている」

「秘められた」ってことは自分でも気づくことができない想いがこころにあり、それこそが自分の目にする世界をつくっている?!

私たちは物理的な世界に住んでいて、その物理的な世界は自分の外側に存在している、と信じています。そして、その世界からやってくる刺激の数々に反応し、折り合いをつけること。

それが、私たちが考えている「生きること」。

でも、(現在の量子物理学でも言われていますが)じつは世界とは私たちのこころのなかに存在しているイメージであると言われています。つまり、意識がただ夢を見ている状態です。

そして、自分でも気づくことがない秘められた「こころの想い」というものを、つねにイメージにして世界という形で見つづけているというわけです。

実際、外側というものは存在せず自分のこころが発信しているならば、目にするものに反応してしまうと、自分のこころのなかにある思いこみをどんどん強化することになります。

知らぬまに、世界という形をとった自分の思いこみの被害者になってしまいます。自分は外と闘っていると思っていても、じつは闘っている相手は自分自身なのですね。

人生とは、自分の外側に存在する世界とかかわることだ ・・・ と信じる時点で、私たちは世界という名の自分のこころのなかに閉じこめられてしまいます。自分のこころがつくりだしたイメージの、登場人物の一人と化してしまったのです。

世界というものは、自分が信じていることしか映しだせないのだとすると、同じことのくり返しを生きることになります。景色は変わっても根底にあるパターン・力動は変わらないからず、なにかが同じなのです。

昼がきて夜がくることも、暑い日があって寒い日があることも、大雨があって干ばつがあることも、生まれて死んじゃうことも ・・・ 私たちのこころが正気でないことをあらわしているイメージにすぎません。こころが分裂していることから、つねに相反する二つのあいだを行ったりきたりする二元性という葛藤に悩まされているのです。

そうなると、人生も登ったかと思うと下って、下ったかと思うと登る ・・・ これもこころのなかの二元性のあらわれであり、当然の成りゆきとなります。

しかし、私たちは自分で何がどうなっているのかまったくわかっていないので、それを修正するすべがありません。

そもそも、目に映るものが自分の外にあると思ってしまった時点で、コントロール不能になってしまい、世界 対 自分という葛藤のドラマに巻きこまれてしまったのです。さらに、その被害者であると信じることで、自分のこころのなかの世界にどんどん取りこまれてゆきます。

何かがうまくいかなくなったとき、必死で外側のことを変えようと努力すると ・・・ 一見うまくいったように思えても、じつはなかなか長続きする結果にはつながりません。

なぜなら、自分に何かを思いこませたり、信じたりという表面的なこころのパワーを使って変化を起こそうとしても、少しは変わったような錯覚は起こっても、やはりそれは表面だけのこと。心底のパターンが変わるという、真の変化にはいたらないのです。

じゃあ、真の変化はどこからやってくるのでしょうか?

それは、こころのなかに囚われている自分(この世界にいる自分)に頼らなくなったときです。こころのなかの世界の囚われ人には変える力がありません。

囚われ人がホンモノの自分であるはずがないからです。これがニセモノであるなら、必ずホンモノがいるはずです。

まずは、「目にしてることにだまされない」ことが重要です。「自分が見ていることは、こころが見たいように見ているからそうなっている」ということを理解する必要があります。こころによって、知覚は自在に変わるからです。

「ヘンなものが見えている!」「ああ、これは私のこころ自体がおかしいからだわ」と、過度なリアクションをすることをやめます。

そして、「自分のこころは、じつはこのような葛藤(問題)を信じていたのだ」と改めて認識します。私こそが望んでそれをしていたのだ、私がこうしていたのだ、ということを受け入れます(被害者をやめます)。

私はイメージのなかに囚われている人なのか、それともそれを外から観察している存在なのか、もう一度選びなおします。

イメージの外にいる制限のない存在、大いなる無限のワンネスとひとつである存在であるなら、自分の当然の権利である完全さを求めてよいはずです。

囚われ人のニセモノの自分を頼りにすることなく、自分の正気の部分である高い意識(ハイヤーセルフと呼んでも、スピリットと呼んでも、エンジェルでもかまいません)とつながり、訂正のお願いをします。「自分がでっちあげている世界を手放したい」「ここから脱出して、ほんとうのことを見たい」「ほんとうの自分を体験したい」と。そして、間違ったこころとその結果となった知覚を取り消してもらいましょう。

この取り消しをしてゆくことは、自分の勘違い、つまりこころのゴミを取り除いてゆくことです。

こころのゴミはたまりすぎて、間違った人格を主張しはじめました。私になりすましているニセモノです。ニセモノだからこそ、落ちこんだり、行き詰まったり、とち狂ったことをしてしまいます。

結局、自分の人生に立ちはだかるように見える障害は、どこか外側から急にやってくるのではなく、自分のこころがゴミでいっぱいになってしまったために目のまえの世界(というイメージ)をゴミ捨場にしてしまったのです。そして、それを見て「なんでこんなところにゴミ(問題)が!」とびっくりしているだけなのです。

でも、たんねんにこころのゴミを取り除く習慣をつけてゆくと、もう外の世界へゴミ出しをする必要はなくなります。あるがままの自分、ワンネスとしての完全な力をもつ自分が輝きだすことができるようになります。

すると今度は、ゴミの山ではなく、自分のなかにある真の輝きを目のまえに映し出すことができるようになります。この輝きのなかには完全さがあるので、何かを引寄せる努力をする必要も、なにかをクリエイションする必要も、違った自分になる必要もありません。

自然体のこころでありながら、安らかさが感じられるようになります。なぜなら、自分が目にしているのは、自分のこころのなかにあるほんとうの安らぎだからです。

こころのゴミ出しをしてゆくと、ネガティブな記憶、感情、思いこみが少しずつ清算されてゆきます。

それらは、すべて「こんなことがあった!」「あんなことも起こった!」という過去の思いなので、ゴミがどんどんなくなると、自分にとっての過去というものもあまり意味をもたなくなってゆきます。

過去を手放すと、現在の目にするものに対しての見方がまったく変わります。なぜなら、私たちは何を見たとしても、すべて過去の知識、判断、思いこみ、記憶をつかって、「これはどういうものか」「どういう意味があるのか」を決めているからです。過去を手放すとラベリングがなくなり、すべてがただのまっさらな「あるがまま」へと落ち着くのです。

これによって、世界の見え方、意味がまったく変わり、新しい知覚が生まれます。

それはある意味、罪のない知覚、無垢の知覚といえるかもしれません。

この無垢な知覚は二元的ではないので、相反するものを含むことがなく、自分を守ろうとする必要もなくなり、怖れや不安という感情も少なくなってゆきます。

私たちの受けてきた教育では、外に見えるものを判断して、どうするか行動を決めるように教わってきました。

でも、残念ながら真実はまったく逆なのでした。外に見えるものが好きでなかったら、いったんスルーして反応せず、まずは原因であるこころへと立ち返ること。自分のこころのなかのイメージを見ているのだ、と認めること。

そしてこころのなかにある分裂や、攻撃、怖れの想いに気づくことで、それらを危険物処理班である高い意識にひとつひとつ申告して、きっちりと処理してもらうことです(これは、自分のこころのドラマの登場人物にすぎないエゴである自分にはできません)。

ひとつひとつ片づけてゆくと、知覚が変化してゆきます。外にあったはずのすべてが、だんだんこころのなかに戻ってきます(外というものがなくなってきます)。まるで、手袋が裏返るようなヘンな感覚(どんな感覚?!笑)。

そして、必ず自分がもともともっていた輝きや完全さというものにふれる瞬間が多くなってくるのです。そうすると、こころに安らぎが生まれ、より高い意識とのプロセスを信頼することがでるようになります。流れを信頼できると、新たな循環が生まれます。

お部屋もこまめな掃除機がけが必要なように、こころもこんなお片づけの習慣をもってみることによって、アタマで考えているのとはまったく違った変化というものを体験できるようになったりするのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

お茶の間シネマトーク「ポリーナ、私を踊る」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

フランスの人気バレエ漫画「ポリーナ」(日本でも出版されているそうな)の実写版シネマ「ポリーナ、私を踊る」。

誰もが経験する「自分らしく生きる」という人生の葛藤を描くとともに、ふんだんにもりこまれているコンテンポラリーダンスがとても美しいです。

ジュリエット・ビノシュが振付家として登場し彼女のダンスも披露していますが、まるでほんものダンサーの迫力。また、かつてオペラ座のエトワールだったジェレミー・ベランガールのコンテンポラリーダンスもすばらしいです。

貧しいポリーナの両親は、娘をプリマ バレリーナにすることが夢。

借金とりに悩まされながらポリーナを厳しいバレエ学校に通わせつづけるのですが、まったく目をかけてもらえない日々。そんな屈辱にたえながらたゆまぬ努力をつづけ、成長したポリーナはついにボリショイバレエ団のオーディションに受かることができたのです。さあ!これから、というそのとき ・・・ ポリーナは古典バレエではなく、コンテンポラリーダンスに突如目覚めてしまうのです。「もう他人の振り付けをマネるのはいや!」と、そこから彼女の踊りと自分さがしの葛藤の日々がはじまります。

ロシアから南フランス、そしてアントワープへ。深夜のバーで働き、両親とも疎遠になり、完全に身をもちくずしたように見えるポリーナは ・・・。



本人がどう葛藤しようとも、自分のなかにある自分という種は、いつかは発芽してその姿をあらわさずにはいられないのです。本人がどうであろうとも。

一見どんなに違う方向に進んでしまったように見えたとしても、じつはそのひとつひとつの体験が発芽する力をたくわえるエネルギーに変わり、じっとその日を待っています。

ポリーナにとって、褒められることもなくこきおろされつづけた幼い日のバレエのレッスンも、チャンスがめぐっても主役を掴みきれなかったことも、恋人と破綻したことも、住むところすらなくなってしまったことも、すべて挫折というラベルをはることもできるけれど、じつはそのすべてがほんとうの自分が待っている梯子を登りつめるための大切なステップ。どれひとつがぬけ落ちても、上に進むことができないのです。

ポリーナ本人以上に彼女の「人生」のほうが、よっぽど彼女にとって何が真実であるのかを知りつくしていたのようです。

そして、私たちも同じ。

アタマでああだこうだいろいろと考えるけれど、考えたとしても結局は思うようにはまらず、エネルギーばかりを消耗してしまいます。なぜなら、本当は自分は何もできないから。知っていると思っているけれど、ほんとうは何もわからないから。

けれど、勝手に展開してゆくように見える人生こそがすべてを知っていて、それこそが真実そのもの。勝手にさせておくことこそが、いちばんの贈り物となるのです。なぜなら、それは間違いようがないからです。わたしたちは間違うけれど、人生という真実は間違いません。

つまり、自分こそが「やっている!」というおごりがあるときのほうが、こんがらがってしまうようです。あまりにも自分がチャチャをいれすぎてうるさくすると、「ちょっと静かにしていてくださいね」と愛の一撃をくらって静かにせざるをえなくなります。なぜなら、展開することこそが真実だから。ただリラックスして、人生に勝手に生きてもらいましょう。

必ず、自分が思っているよりも気にいる結末になるに違いありません!

その昔、モスクワの劇場でボイショイバレエを観たとき、舞台の真横にある桟敷席だったのです。

白鳥の湖の王子がソロで跳躍するたびに、その着地の音というか響きのすごさにびっくりしましたっけ。羽のように優雅に見えているのに、近くで観ているとすごい重力が伝わってきます。

上から観ていると舞台に死角ができて、そこに王子が踊りながら消え去ったときにドスン!という地響きがすると、王子が転んだのでは!とひやひやしたものでした(そんなわけない! 苦笑)。

肉体の酷使だけでなく、さらに芸術性の追求も加わって、ほんとうにダンサーさんたちはすごいな〜と感心しましたっけ。

 

 

ゴールデンウィークですね♪

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

わたしは通常営業のため、気分転換にカフェにお出かけするぐらいですが、たっぷりの緑とここちよい風にじゅうぶんリフレッシュしています。5月、LOVEです ♡

お休み画像はなにもないので ・・・ 最近のいただきものおやつ画像などを・・・(笑)。チョコばっかりです。

カラフル、マトちゃんチョコ。

あまりに可愛いくて、しばらくラップをかけて飾っていました。

アメリカのお土産チョコ with  Bunny。

歯がキーンとするぐらい甘いチョコ。おかげさまで、一粒で手がとまるのでダイエットに良しです!

イースターエッグに入ったチョコ。

外国製の缶は模様が凝っています。日本では、アンティーク以外には可愛い缶にお目にかかれません。

これ、イチゴに見えますが、たしかにイチゴです。フリーズドライの。

ホワイトチョコとラム酒の香り。固いはずなのに口のなかでチョコが溶けるので、ジューシーに感じる不思議な食感です。

そしてこちらは、わたしの好きなイタリアのコーヒーによくあう、イタリアのチョコ。

コーヒーブレイクのあと、きまってすごい眠気に襲われてソファまで這っていって爆睡状態。そんなことが三回も。

そんなに疲れていたかな〜と不思議に思っていたのですが、どうやらこのチョコの仕業と判明。たっぷりのリキュールとサクランボが入っているのがおいしくって、たて続けに三つも食べたら完全に酔っぱらっていたのでした(汗)。

・・・というように、ひところチョコレートばかりをいただいていたのですが、最近のブームはなぜか「ケンミン ビーフン」(かなり、レアです・笑)。

会うお友だちごとにビーフンを携えてやってくるのです(なぜっ? いったいみんな、どうしたの?)。「これ、おいしいし、お野菜いっぱいとれるし、作るの簡単だよ! フタしておくだけ。わたし大好きなの」って、みんな同じご意見。

なんというシンクロニシティ! 宇宙はわたしにビーフンを食べさせたいようです(苦笑)。

店頭に並んでいないホタテ味、かなりオススメですが、もう食べちゃいました。

 

 

気づきの日記「すぐにあやまっちゃうクセ、じつはそれって攻撃?」

「あやまらなくていい場面で、ついあやまってしまうんです」とA子さん。

けれど、「悪いのはあっちなのに、なぜ私が!?」と腹がたってきてしまい、もう無為にあやまるのをやめたいのです、と。

「ごめんなさい」「すみません」は英語の「エクスキューズ ミー」と同じように使われるけれど、ちょっと違うとように感じてしまいます。

「エクスキューズ ミー」は「おっと、失礼!」というような軽い感じで、それはアクシデントだったね!という感じ。一方、「ごめんなさい」「すみません」はもう少しジメっとした罪の意識がある感じで、「私が悪うございました」「私のせいで」的な自分のしたことを責めるニュアンスが含まれているように感じます。

あやまらなくていいところであやまっちゃう、という方は結構多いようです。意識してか、無意識でか、口グセのように「ゴメン!ゴメン!」を連発する方もいます。あいさつがわりに「あ〜、ゴメン!ゴメン!」、何かしてても「あ〜、ゴメン!ゴメン!」。ほとんであいのてのようで、何に対してのゴメンなのかかわからない感じです(汗)。

「ゴメン」という言葉は何気ない言葉のように思えますが、無意識的に「私は間違っている人」という想いをこころにインプットしてしまいます。

そして「私は間違った人です」という信念があると、自ずと外側に「間違った人である証拠」として、自分へのとがめや攻撃を見やすくなってしまいます。

安易な「ゴメン」は自分を痛めつけることになるので、要注意なのです。是非、クチぐせをチェックいたしましょう。自分ではあまりにも無意識になっているせいで、言っていないと思うかもしれません。家族や友人からは、「いっつも言っているよ〜!」と太鼓判をおされるかもしれません。

無意識にとってしまう反応(無意識のゴメン発言)は、そこにどんな思いこみが存在してそれをやっているのかをはっきり意識化することがとても大切なことです。意識化によって、はじめて手放すことができるようになります。

そこで、A子さんのあやまっちゃうクセの底にある信念を一緒に探求してみました。

自分は悪くないと思っているのにとっさにあやまっちゃう → でも理不尽だと怒りがわいてくる → それでもあまやるのは、万が一相手が怒って攻撃してきたら困るから → 私は小さい存在だから守りきれない → どんな助けもやってこないのだから、私一人で守って闘わなければならない → つまり、私は見捨てられているのだ → なんとか自力で守るほかない → だったら、さっさと自分が悪者になってしまえば、攻撃にさらされることもなく丸くおさまる → 私は喜んで間違っているものになりたい → だから、あやまることだ!

A子さんのなかには、こんなふうに孤独に感じている見捨てられ信念が潜んでいて、どんなときでも自分を守るためには「私さえ悪者になれば」あるいは「自分で自分を罰すれば」、わたしは誰からも攻撃されずに安全に生きることができる。安全に生きるためには、率先して自分を痛めつけるに限るのだ、と信じていたのでした。

でも・・・・この考え、いっけんヨワヨワに見えますが、けっこう攻撃的な考えなのです、ほんとうは。

「わたしさえ悪者になって我慢すればいいんです」といのは、「そうです、わたしはあなたの被害者でしょ?」、つまり「あなたは加害者で決まりですね! わたしを傷つけているんです」、「私は、弱々しい正しい人です」、だから「あなたこそ、本当は悪いヤツなんです」・・・ と遠回しに言っているのです。

「わたしはあなたのせいで、我慢しているんです」「心底悪いのは、あなたなのに」と、すっかり被害者になっています。これは口に出していなくても、あきらかに攻撃に他なりません。

そして、こころで思っていることこそ、自分にとっての真実にならざるをえないのです。

これでは、間違った自分のイメージを育むことになり、また人との距離も広がってゆき、世界が自分にとって敵になってしまいます。

自分のこころはこっそりと相手を攻撃したのを知っているので、その攻撃に対するリベンジがやってくることに怖れおののくことになります。

「与えたものこそが、受けとるもの」。攻撃したからこそ、攻撃がふりかかってくることになります。その怖れから、人や世界から自分をさらに切り離して孤立を深めます。自分が幸せになるのを自分が阻んでいるのです。

「ちゃっかり相手を攻撃して、知らぬふりをしている」という罪悪感によって、無意識のうちに自分を罰することで攻撃をのがれようとくわだてます。

大きな問題ではないにしても ・・・ どこかで転ぶ、頭をぶつける、包丁で手を切る、自転車がつっこんでくるなどなど ・・・ 大小あらゆるイタタな、あるいは残念な体験をつくってバランスをとろうとするのです。

A子さんに限らず私たち誰ものなかに、うまくオブラートでカモフラージュされた攻撃の想いが棲んでいます。自分では、まったく攻撃とは気づくことができていません。

そんなうまく隠された攻撃の想いによって、自分で自分の足をすくっていたりするのです。

自分のしょうもないパターンをぶちこわしてあげるには、しっかりと白日のもとにさららし、つぶさに見てあげることが必要です。たまに立ち止まって、自分の言動の意図やら想いをじっくりとながめてみることをオススメします。

あまりにも巧妙に被害者を装っているにもかかわらず、それでもしっかりと攻撃していることに気づき、自ら笑っちゃうことがあります。

でも、笑えたらオシマイ! めでたくGAME OVER です☆

その不毛なエゴの想いは、気づいたらすべて高い意識に渡してしまい、こころから取り去ってもらいます。そして、隠されていた本来の自分の想い(闘いなど知らない安らぎ)へと戻してもらいましょう。

ゴミさえ捨てることで、いつでも真実はそこにあるのです。

外のあれこれなどまったく関係なく、そこに隠されていた安らぎ、安心、豊かな思いこそが、本当に安全で安らかで豊かな人生に大切なものです。そのこころからこそ、完全に安らかな世界の知覚は立ちあらわれるからです。

外はカゲロウ。自分のこころのイメージにすぎません。自分のこころを整えることで、そこにすでに備わっているものは自然と世界へと輝きだしてくれるのです ☆☆☆ それが、ゆるぎない安全のある世界です ★★★

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

ギンザ シックスに初上陸

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

アフタヌーンティー行脚をはじめてからというもの、割引特典がついたアフタヌーンティーがあるとお友だちがすかさずゲットしてくれます。

おかげさまで、順調に制覇中。ちゃんとしたディナーよりもお高めだったりするので、割引大歓迎です。

さて今回は、テレビでもよく紹介されているオシャレ商業施設 ギンザ シックスにある「ザ・グラン ラウンジ」です。

ここのお店は敷居が高めで近よったことがなかったので(1万円の珈琲豆が話題になっていたのです)、楽しみにやってきました。

予想以上に可愛いらしくて、ひとつひとつのクオリティが高いアフタヌーンティーでびっくりでした(小さなセイボリーはお食事なみ!)。

アフタヌーンティーなので、いちおうスコーンもコロンと一個ついてきます。

どれも丁寧につくられていて、かなりの満足度。最後にはマキシムのミルフィーユがでます・・・ってことは、もしや?

サーブして下さる女性に「とってもおいしいでした♪ パティシエの方によろしく」と声をかけると、「ちゃんとしたものが作っておりますので・・・」というお返事。

「ちゃんとしたもの」??  

もしや? と思った予想は当っていました。こちらのアフタヌーンティー、マキシムのパティシエさん監修だったのでした。どうりで ・・・ 実力は隠しても隠しきれませんね〜(笑)。

出されるお茶は Kusmi ティー。Kusmi ティーも最近よく見かけるようになりました。

「プリンス ウラジミール」というお茶がおいしくて、「ウラジミール王子って誰よ?!」と笑いながら味わわせていただきました。

後日、ヒカリエで Kusmi ティー を発見。ウラジミール王子も!

さすがフランス生まれ! パッケージの色が、カラフルで可愛いです。フレーバーも変わったのがあるけれど、あまり主張しずぎないおさえめの香りが気に入っています。

ギンザシックスのアフタヌーンティーは、お友だちもともにリピートあり 「◎」という感想でした。