furukawaさんのブログ

気づきの日記「幸せのための、心の天日干し習慣」

 

どんな状態でも、それが長くつづくとふつうになってきます。

人間はかなりの順応能力があるので、たいていのことは慣れることができるのです。

でも、「慣れる」というのは、ほんとうは自分にとってふつうではにことに対して使われることばです。ほんとうの自分の状態からはずれたときにのみ、慣れることが必要だからです。

なにかに対して「苦しく」感じているのに(ほんとうの自分からズレているのに)、それを異常事態とはとらえなくなってしまいます。

苦しいのなかには、モヤモヤ、イライラ、ドヨヨ〜ン、落ち着かない・・・という状態も含みますが、それと共存していてもなんら問題意識をもちません。

モヤモヤイライラを問題視するよりも、ただ気をまぎらわせることでそれを無視するか、ため息をつきつつ妥協して共存しようとするとするか、思いきり不平不満を言って否定しながらそのままにするか。あるいは、すでにそれが慢性化しているがために(いいことも悪いことも)鈍感になってしまう場合もあります。

こうなると、ほんとうの自分の状態(山のなかの湖のような静かで澄みきった自分自身)を思いだすことはできません。

幸せであることは、なにかを目指すことでもなければ、達成することでもなく、ただこの静けさをいつも自分のなかにたたえていること。その静けさと安らぎから、すべてのものを優しく愛でることができるのです。

それこそが自分自身の「ほんとうにふつうの状態」だということを思い出さなければなりません。

ということは、イライラモヤモヤを感じているなら、自分ではないものになってしまっている、ということです。その状態では、なにを手に入れようとも幸せを感じるこはありません。

このモヤモヤイライラの感覚は、「どこかで自分の考えが間違ってしまった」ということを教えてくれているにすぎません。なにか間違ったことを全力で信じているのです。

だから、モヤモヤが出てきたときにそれをスルーしてただ順応しようとこころを麻痺させるより、「なぜ」自分はそう感じているのかをちゃんと調べてみることが大切です。

そうすると必ず、自分のなかにある「不公平感」や「被害者意識」「犠牲の感覚」を見つけ出すことができます。

それを見つけたら、自分自身の高い意識(ハイヤーセルフ)にそれを渡して、それがほんとうに正しいものの見方なのか尋ねて、こころを正してもらう必要があるのです。

このモヤモヤイライラは、じつは自分が思っているような目のまえのことから生じたのではありません。

ただ自分のなかに長年ためこまれてきたものが表面の意識に浮上してきたために、それに自分が気づいてしまったにすぎません。いにしえのゴミが浮いてきたにすぎないのです(うかうかしていると、また深く押しこめてしまいます)。

そのような感情は、こころの奥深くにためこまれているあいだには、まったく気づくことができません。

押し入れの奥深くにしまったものを、「なきもの」としてすっかり忘れているのと同じなのです。姿を消しているあいだは気づくこともできず、浄化のチャンスもなく、ずっとずっとそのままになっている ・・・ けれども、なんかスッキリしない。

なぜなら、このためこんだもののせいで、自分のこころはドヨヨンとすっきりしないものの見方をするからです。

だから、このようにイヤな気分が表面意識に浮上してきたときにこそ、その存在に気づき、気づいたからこそ消去することができます(断捨離と同じで、たとえいらないものでも一回は手にとって、「これはいらない」という決断をしなければならないのです)。

だからこそ、イライラモヤモヤについては、自分自身が敏感になる必要があります。自分を解放するチャンスを逃さないためです。手にとって「これはいらない!」と決心するためです。

すぐにハイヤーセルフとともにそれを見て、廃棄してもらい、本来の澄んだ湖としての自分を取り戻せるようになります。

その自分は、すべてを「よし」とすることで、愛あるもの完全なものとして受け入れることができます。

だから、イライラモヤモヤについては、順応能力など発揮してはいけないわけです。

私たちのこころは、つねに風とおしをよくしてあげる必要があります。奥深くまでハイヤーセルフの光をさしこませ、天日干しにしてあげるのです(最初はとんでもないものが飛だしてきて、ビックリすることもあるかもしれません!ゴ○ちゃん見たいに
・・・ 苦笑)。

早くきれいにするためには、ハイヤーセルフに自分のこころをしっかりと開くこと。

私はこんなふうに感じていて(イライラしている、モヤモヤしている、憎んでいる、怒っている)、「これが本来の私の思いでないのなら、ぜひ廃棄してほしい」とお願いするべく、つねに自分のこころを一緒に見てもらうのです。

衣替えの時期に、押し入れのものをあらいざらい引っぱり出して、風をとおして、必要なものだけを収納するように、こころも、ハイヤーセルフとともに風をとおして天日干しの習慣をもちましょう。

そして、こころに不必要なものをためこまないように、イライラモヤモヤには敏感になって、ハイヤーセルフとともにこころをクリーンに保つようにいたしましょう。

そうすると、自分のこころのふつうの状態(真の安らぎ)を知ることになります。それは、何かがどうならなくっても、期待することがおこらなくっても、ただいつも静かに豊かに満ちたりている自分がいるのに気づきます。

そして、その満ち足りた自分が見る世界は「愛」であり「やさしさ」であり「豊かさ」がそこに映しだされるのです。

 

 

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お茶の間シネマトーク「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」

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ウッディ・アレンのもと、ティモシー・シャラメ、セレーナ・ゴメス、エル・ファニングなど今をときめく売れっこさんたちがズラリと顔を連ねる作品です。

ギャッツビー(T.シャラメ)とアシュレー(E.ファニング)は、ラブラブな大学生カップル。アシュレーの課題でNYの大物映画監督にインタユビューすることになり、二人は週末NYでデートすることに。それも、かなりオシャレでゼイタクなお泊まりデート。

ところが、どんなに盛り上がっているふたりであっても、アクシデントはおこりうる。ともすれば、とりかえしのつかないことに・・・(汗)。

ニューヨーカーのギャッツビーはアリゾナ生まれの彼女にNYをくまなく堪能してもらべく、ギャンブルで稼いだあぶく銭をつぎこんで学生にはにつかわしくない一流ホテルをリザーブし、ランチも名店で手配、さらに美術館を巡り、あれをしてこれをしてとてんこもりのデートプランに余念がない。

一方、アシュレーは憧れの映画監督からおバカな女の子と思われたら大変!と、インタビューのことでアタマがいっぱい。

二人ともNYの週末に舞いあがっているけれど、すでにここでそれぞれが描くワクワクは大きくズレまくっているのです。彼女と過ごす贅沢な週末か、雲のうえだと思っていた監督と直接対話できるまたとなく希有でエキサイティングなNYか。

アシュレーが一時間余りインタビューしたら、あとはふたりっきりで豪華なNYを満喫するはずが・・・。

なぜか一時間後にも二時間後も、ふたりは落ちあうこともできず。降りだした雨のなか、はては連絡すらとることもままならず、時はすぎてゆきます。

アシュレーは悩める監督にこころを開かれ、インタビューだけじゃ終わらない。さらに脚本家夫婦のトラブルにまきこまれ、有名ムービースターに出くわしたかと思えばくどかれるしまつ。もうアタマがクラクラ・・・。

ギャッツビーといえいば、たまたま出くわた旧友から映画のエキストラを頼まれ、そこから過去の扉がどんどん開きはじめ・・・。

ふたり仲むつまじくすごすはずが、じつはNYには刺激がいっぱい!・・・。いったいこの二人はどうなるの?? (→予告をみる

ウッディ・アレンらしいオシャレなNY & ラブラブな(はずだった)ふたりのハラハラ ラブストーリー。

PS それにしても、ティモシー・シャラメ、彫刻のように美しいお顔ですね〜☆ こんど、「チャーリーとチョコレート工場」のウォンカさんの若かりし頃を演じるのですよね。ウォンカさんがなぜあんなにエキセントリックになってしまったのか、ナゾがとけるのでしょうか?!

 

 

 

最近のご近所カフェ事情

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私にとって居間兼書斎だった行きつけカフェが、長びくコロナ禍でことごとく全滅してしまいました。

ああ・・・長年愛用のお気にいりの居場所だったのに(私がいないときには、みんなこのカフェに探しにやって来て、もれなく見つけるという)。

コロナにめげずに、新しく開店、発掘したお店もあります。

* アムストラグラム

代官山からフルーツタルトのお店 キルフェボンが消滅して久しいのですが、去年キルフェボンにいらした方のタルトのお店が開店しました。

こちら、目下かなりのお気に入りです。

この日は、季節のフルーツ、柿、洋梨、ベリー、ぶどう、イチジク、マンゴーがもりもりの看板タルトをいただきました。紅茶をあわせましたが、コーヒーも濃いめでオススメです。

バターが香るタルト生地はサックサクで、そこに甘さおさえめでコクのあるカスタードがたっぷり、そして季節のフルーツがてんこ盛り。

お散歩コースにあるので、ついつい引寄せられてしまいます。

* THE CITY BAKERY

NY発のパン屋さんカフェです。

中目黒にもあるのですが、こちら代官山のほうがカフェスペースがゆったりで、お外にもベンチが並んでいます。

キャラメルマフィンとカフェラテを。マフィンはクロワッサン生地のようにさくさくしていました。

パンは大きめのゴロっとしたものが多く、お腹がじゅうぶん満たされて幸せ♡ NYチーズケーキなどのスウィーツ類もありますよ〜、

* MAT COFFEE

こちらは少し渋谷方面より。

「どうぞごゆっくり♪」と運ばれてくるスウィーツとコーヒーは、どちらもたっぷりサイズ。

このお店にいると、時間がゆっくりと流れるようです。

濃いめのコーヒーにラムレーズンチーズケーキがベストマッチ!

アムストラグラム」と「THE CITY BAKERY」は オフィス・るん から近いので、セッション終わりに是非スウィーツとコーヒでもおくつろぎくださいまし♪

 

 

 

気づきの日記「手を出したい気持ちをじっとこらえて・・・」

 

小さいときから「ボ〜っとしていないでちゃんと考えて、自分でどうにかしなさい!」って口うるさく言われたよね〜。

そうそう!ただ傍観していたり、そのままにしておくと、やる気がないとかダメな子っていうレッテルを貼られたよ〜。 ・・・・そんな話しをしておりました。みんな同じなのです。

誰もがみんな自分のタマでしっかりと考えて、努力するようにお尻をたたかれて育っています。

だから、なにかが起きたときには、アセってどうにかすることが正しい対処法であると疑いません。何もしないでいるなんて、もってのほか!

そのため、すべてをあるがままにしてリラックスしていようものなら、何か悪いことをしているような、ナマケモノな気分になります。

でもホントは、モノごとの真の解決法、正しい対処法は、「ゆったりくつろいで、すべてをおまかせして、指一本ふれずに安らかでいる」ことなのです。

もしすべきことがあれば、自分のこころにポトンと落ちてきてちゃんと気づくことができるから。

モノごとのすべての流れは正しい方向に向かっているから、それでOKなのです。

そんなふうにゆったり向きあえないのは、目先のことを「たったその一点」でしか判断していないから。全体のストーリーを見ていないのです。

今、自分が目にしているものを、自分の過去のデータ(怖れをベースにしたデータ)のみから判断すれば、どうしても「早く手をうっておかなければ大変なことになる!」というマズイ状況に見えてしまうことになります。

まずいことになる!と思えば、ものごとはそのようにしか見えなくなります。

でも、すべてのことは、これからよくなるための布石です。

ルービックキューブをきれいに完成させようとするとき、その途上ではきれいだった面をガシガシと崩してゆくことも起こりえます。

それと同じこと。

すべては完全な良きことに向かって、きれいに整えようとガシガシ調整がすすんでいる最中です。

あっちをあわせて、こっちをあわせるためにここをずらして・・・その作業をはばんではいけないのですね。

だから、今起きていることから三歩ぐらい下がって、手出しをせずに(指一本でさえも御法度です!)、ただそのままにしておいてみましょう。

「これからどうなるのだろう?おもしろいから見ていてみよう!」

すると・・・ 「なるほど〜、こうくるか♪ 完璧だねっ!」と声をあげたくなると思います。

いったん「完璧さ」にこころがチャンネルをあわせると、日々「完璧だわ〜〜〜♪」がくちぐせになることまちがいなし!

だから、期待しながら、安心して、後ろにさがって、手を出さずにおもしろがって見ていましょう♪

 

 

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きょうもまだ半袖

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日中は夏のように気温があがる毎日です。

でも、夕方、空を見上げるとすっかり秋の気配。

最近は、ベランダで風にふかれながら暮れゆく空をながめているのが好きです。

一杯やりながらね!

(って、リンゴジュースですけど・・・)

 

 

 

お茶の間シネマトーク「広がる "猿の惑星” の輪」

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しばらく「猿の惑星」にはまっておりました。

「ファンタスティック・プラネット」を観て「猿の惑星」を思い出したのですが・・・そういえば、テレビで断片的に観たきりでちゃんと観たことはなかったな〜、と鑑賞をはじめたら・・・ これがけっこうやめられない。

なんと、1968年の1作目から1973年まで、たてつづけに全5作も作成されているのですね〜!

そして、おもしろい現象が!

私が「今、”猿の惑星” にはまっているの〜」と話すと、みんな「懐かしいな〜!また観たくなっちゃったよ」とそれぞれ鑑賞がはじまって、みんな5作目までノンストップのご様子(私も!)。

とくに殿方はみんなかなりの思い入れがあるご様子で、「あれは名作だよ!」と口ぐちに大絶賛。

そして日々、送信されてくるメールといえば、「ジーラがどうした、コーネリアスがどうの」という「猿惑」の話題でもりあがっておりました(笑)。

コロナ禍でひろがる「猿惑」の輪(和)♪

作中にジーラという女性博士が出てくるのですが(モチロン猿です!)、みなさま「ジーラが○○先生に激似でさぁ」と、なぜかみんな異口同音に「先生」に似ていたとおっしゃるのでした。 決して、○○ちゃんや○○くんではないのですよね(笑)。またコーネリアス似の話は聞かず、なぜかジーラばかりでした・・・(なぜ??)

たしかにジーラは、街角に歩いていらしても違和感ないです(笑)。

これは宇宙探索の話というよりは、タイムトリップの話です。1968年にしては画期的。

そして、毎回、エンディングにびっくりさせられます。えっっ!!このシチュエイションって、続編ぜったいムリでしょ!っていう終わり方で。(ふつうは、誰かメインとなる人物がいて、その人を中心に話しが展開しますが、これはそうはいきません。)

私は、3作目ぐらいまでが好きかな〜。それ以降は、登場する人物、いえ、猿物の人間性、もとい猿性がいまいち描ききれていないので、あまりこころをつかまれる感じがなかったのが残念。

新しい「猿の惑星」も最近作られていたようですが、なぜか魅力を感じず。ストーリーよりも、凝ったSFXがメインという感じで。

この1968年からのシリーズは、猿メイクがシンプルでありながらも、とても表情が豊かなのが印象的です。

画面も素朴で、あまり作りこみすぎていない手作りっぽいところがかえってヨイのです。3作目ぐらいまでは、ストーリー展開も意表をついています。

「猿の惑星」、あなどるなかれ!でした。まだご覧になったことがない方は是非どうぞ。

観ていて、今の私たちが森や山からエサを求めてやってくる動物たちにしていること、そして環境、地球全体に対して無頓着であることを野蛮な動物として、猿にビシバシ指摘されておりますよ。あ〜・・・耳がイタ・・・。

 

 

お茶の間シネマトーク「ファンタスティック・プラネット」

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この真っ赤な瞳のインパクトにつられて、ストーリーの概略を読んでみると ・・・

「目だけが赤い巨大なドラーク族が支配している惑星では、人間は虫けら同然に扱われていた・・・」ですと?!

たいていの映画では、人間ありきで人間が主役ですが、そうではないのですね。

私たちが虫けら?!・・・ さきほどまで部屋に出没した小蜘蛛を追い回していた私はさっそく観る気まんまんに。

で ・・・ 蜘蛛さんの気持ちはよ〜くわったしだいです(汗)。別に悪さをしようとしたわけではなく、ただそこに棲息していただけなのにね・・・(ストーリーのなかで、人間も静かに生活してているだけなのにムゲに踏みつぶされています)。

母親が殺されてしまった人間の赤ちゃんをドラーク族の女の子がペットとして飼い始めるというお話です。

その男児はすくすく大きくなり、女の子が部屋にいないときに学習機材を使ってドラーク族と同じように智恵をつけてゆくのです。そして、ついには女の子のもとを脱走し・・・(さあ、どこへ行ったのでしょう?!)。

これを見ても、野生の犬や猫がなかなか人間にこころを開かないのは当然だよね、と感じます。とにかく、なにをされることやらコワイのです。

これは1973年の作品ですが、シュールな画面と斬新な発想にびっくりさせられます。まったく固定観念にとらわれていないのです。

このドラーク族の日常の過ごし方や、食事の仕方。そこに棲息する植物や動物の度肝をぬく形態。ドラーク族の使う道具も、びっくりです(人間につける首輪にはリールはなく、リモコン操作なのですよね。また、3Dプリンタのようなものも使っています)。

いちいち唸りました。(→予告をみる

フランスとチェコの合作とありましたが、う〜ん、納得。チェコの作品って、ときにびっくりするようなオドロオドロしさがあったりします。

●この赤い目と「虫けら同然の人間」というのは、私たちのこころにはちょっとばかりキャッチーでしょうか?

お友だちに「こんなの観たよ〜!」とご紹介したら、あっというまにご覧になり感想と情報をシェアしてくださいました。

「気持ち悪い生物はナウシカっぽいと思ったら、実際、ナウシカに影響を与えた作品だそうです」と。さらに、「コロナウィルスからみた人間って、こんな感じ?!」と。ほんとですね〜。

ところで、このストーリーで「猿の惑星」を思い出したのですが、

子どものときにテレビでチラリと観たのですが、それでもけっこうインパクト大でした。

とくに、一作目のエンディング。「え〜〜〜!!こうなる??」と、うすら寒く感じたものです(そもそも、猿の惑星にたどり着いた宇宙飛行士たちは二千年も旅をしている、という設定がスゴイ・苦笑。地球に生還できたとしても、ピラミッドが高層ビル群になっていますものね・・・汗)。

「猿の惑星」(これは1968年なんですね)、もう一度観たくなりました。

PS 「ファンタスティック・プラネット」の本編は、フランス語、英語ではこちらで閲覧できます。(→こちら

 

 

 

気づきの日記「赦さなくちゃいけないのは自分自身」

 

何か失敗しちゃったとき・・・

私たちはその失敗の内容自体を客観的に見ようとするよりも、それはスルーして、自分自身を責めることに向かいがちです。

「なんでこんな失敗しちゃったんだろう?」「みんなに迷惑かけて、私ってダメだわ」「いっつもこうだよね」「きっとあきれられてるかも」「もう見放されるかも」・・・

ほんとうのところ、そのときするべき正しい反応は、

「自分のしたことは適切じゃなかった」「じゃあ、そうならないためにどうしたらいい?」「不十分だったところはどこだろう?」「それについて何ができる?」「じゃあ、次回はそこを改善しよう!」

「うまくいかなかったポイント」の認知があり、それに対する改善があります。

ところが、私たちがしてしまいがちなのは「裁き」なのです。

「これは ”私の失敗(罪)”」であり、「そんなこともできない ”自分はダメなやつ(罪のある人)”」というふうに。その内容についてではなく、自分についての裁きなのです。それも二度も。

「罪がある」ことのみに焦点があたってしまい、起きた内容は無視されてしまっています。

そして、この「罪がある」という思いは、次から次へと負の連鎖を生み出し、罪のある自分を決定的にしてゆきます。

「失敗しちゃった」→「私はいつもこう」→「嫌われちゃう私」→「そういえば、○○さんの私に対する態度は最近つめたい」→「仕事の担当を変えられるかも」→「私は見捨てられる」→「不安だ」→「この先どうなる?」・・・

どんどん架空のストーリーに巻き込まれてゆき、架空の人生を生きはじめます。

失敗してしまったらすべきことは・・・

*何故そうなったかを検証して、改善点を明らかにして、次から実行すること。

**さらに、こころのなかで「やっちゃった・・・汗」と落ち込んでしまっている自分を赦してあげること。また、その自分を責めつづけている自分も赦すこと。

***そして、たんに改善すればいい状況だったところに罪をおしつけ、罪のストーリーをでっちあげてしまった自分を赦すこと。

私たちは、人のことは赦そうとして、赦す努力をするのですが、

残念ながら、その範疇から自分はスッポリ抜け落ちてしまっているようです。自分に対しては相当なスパルタなのですよね(メッチャ S であり、M でもあります・・・苦笑)。

客観的に改善点を見つけたら、あとはちゃんと自分を赦して解放してあげましょう。

そうなのです、すべては自分を赦すため ・・・ 解放するために起きています。

もしこの人生を何度も何度も生きているとしたら・・・ 赦さないがために罪のストーリーのループにはまりこんでしまって何度も同じところをグルグルしているとしたら・・・。

ならば、今度こそ、今度こそ、そのことに対して違う反応をしなければならないのです。そこから脱しなければならないのです。

責めずに赦すこと。起きたことをそのままにしておくこと。

♪これでいいのだ〜、これでいいのだ〜♪

自分を出口のない同じストーリーのループから解放してあげるために、自分にも優しくしてあげましょう♡

 

 

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連日のサイレン

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きょうは、午前中に四台。
午後になって、すでに二台・・・。

これは、目のまえの駒沢通りを走り抜けてゆく救急車の数です。

このところ、だいたい日に七〜八台ぐらい。

近くに総合病院があるせいもあるのですが ・・・ 連日テレビで放送される感染者数よりも、走りさる救急車のサイレン音の多さの方がより事態のシリアスさを実感します。

昨日はお友だちに渡すものがありちょこっと外でお茶をしてきたのですが、デルタ株の感染威力を思うとおっかなびっくりです。

入ったカフェはスペースもあり、人もまばらでまずはひと安心。

早めにと思いつつも、ドリンク飲み放題につられてついつい長居してしまいました(コーヒー、紅茶、ジュースを6杯もいただいてしまいました!汗)。

夕方、外に出るとまだ蒸し暑いものの、ずいぶん空が高くなり夏の終わりを感じます。

早くマスクをはずして、季節の映りかわりを全身で感じたいものです。

 

 

 

気づきの日記「ホッパーの絵のように・・・」

 

静まりましょう。

言葉がなくなり静かになると、自分が目にしているあれこれ、感じているあれこれ、聞こえているあれこれが ・・・ 自分の内側に存在するようになります。そして、それらはただ流れてゆきます。

私たちがものごとを目にするやいなや発してしまう「あ〜だこ〜だ」のセリフは、流れゆく一連のものをバラバラに引きちぎってしまい、互いに対立させ、対立しているからこそキケンなものになってしまいます。

だから、問題があるように思えるときは、ただ静かにしてみます。

まったく裁いたり抵抗したりすることなく、それらが私というスペースのなかを無条件に通りすぎてゆくのを赦してあげましょう。(これが受け入れること、つまりほんとうに赦すことです。)

そうすると、それはただ過ぎゆくものとなり、消え去ってゆきます。

しかし、そこにあれやこれやの判断や抵抗がくっついてしまうと、それをしっかりと握りしめ、消え去ることを許さず、イチャモンをつけていることとなります。

ケンカを売っちゃったのは自分、つまりひきとめて消えることを阻止しているのは自分自身なのです。

さまざまな困ったことにしろ、身体の不調にしろ、誰かの困りごともしかり、

私たちは勇んでそれに向き合い、対峙することが正しいと信じてきましたが ・・・ まずは静かにして、すっかり手放してあげましょう。

それらをただスルーしている状態です。

もし、それに対して何かすることがあるのならば、ひらめきがやってきたり、身体が勝手に行動を起こしていることでしょう。必要ならば、なにかを自動的にしているのです。

目のまえを流れてゆくものに注意をつかい果たさなければ、もともと存在していた自分自身の叡智が姿をあらわし、ちゃんとお仕事をしてくれます。

静けさのなかにいるとき、私は窓の外を見ながら、街を歩きながら、カフェに坐りながら、まるで世界がホッパーの絵のようだわ、と感じます。

しんとした静寂のスペースが広がっていて、そこに人がいるにもかかわらずまったくストーリーやドラマは感じられません。空間はなんの混じりっけもなく静けさをたたえたままポカンと広がっていて、まるで時が静止したように感じます。まっさらな感じ。

人によってはエドワード・ホッパーの絵は「孤独」とか「寂寞感」があるといいます。私は、しんと静まりかえって、そこに個々のあれこれと時間の流れがない開放感、そして静かなここちよさを感じさせてくれるのです。

ただ静まってみましょう。

後ろに退いて、まさにホッパーの絵を見ているように目にしている画面全体になってみましょう。(これは、ポカンと何かを見ているときにいつも起こっていることです。自分がいなくって、世界という画面だけが存在します。)

その静けさのなかから、問題やらトラブルと見えていたあれこれが、ただ静かに流れて、姿を消してゆくのを見ていましょう。

このスペースになっているとき、すでにそれらはそんなに重要だったり、どうにかしなければならないことではなくなっているかもしれません。(このスペースには、癒しのちから、解決のちからがあるのです。)

このスペースから見るすべてが、どのように形を変えてゆくのか、ただ見守るものでありましょう。

すると、あとになってきっとこんなふうに感じるかもしれません。「おお、そうきましたか!(喜)なるほど〜♪(満足)完璧! ありがとう♡」

 

 

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