furukawaさんのブログ

気づきのぷちノート「こころが貧血にならないために」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

努力して・・・頑張って・・・ガマンして、やっと手に入れたのに、達成したのに、そのわりにはぜんぜん嬉しくない、こころが満たされてない、むしろ渇いているというときがあります。

そのことに集中しすぎてすっかり孤独になっていたり、つながりを失って疲れてしまっているのです。

一方、なにも建設的なことをしていないのに、安らかな満足感を感じられたり、穏やかな平和に満たされた気持ちになることがあります。

私たちは幸せになりたいと思って頑張っているのに、なぜか目指したところにそれはやってきてくれないようです。幸せはどこに行っちゃったのでしょう?

私たちが安らかで、満足していて、平和に満たされているときって ・・・ ひとりで何かを成しとげたときよりも、じつはただ誰かとこころを「分ち合えた」「つながり合えた」という感覚があるとき。つまり、ハートが喜んでいるとき。

「個人」が何かを成しとげようとしているときって、じつは自分のなかに引きこもり、自分にしかわからない世界を作り、自分ひとりで格闘しているときです。つながり合い(愛)や分ち合い(愛)は、完全にお留守なのです。

自分にしか入れない世界に住んでいて、誰もそこにアクセスできません。

しかし、こころはひとつ。ひとつしかないので、つながりあっていないときはまるで血液が循環していない状態をつくっているようなもの。

だから、自分の世界に引きこもると、こころが貧血状態になります。具合が悪くなってあたりまえ。具合がよくないと、楽しくないし孤独を感じます。

そんなことにならないように、こころをつながり合わせて、分ち合わせて、血液をちゃんと循環させて健康にしてあげなくてはなりません。

自分のなかの愛や優しさや思いを分ち合ったり、つながり合ったりするのは、わたしたちのこころの血液を循環させるためのマッサージや温泉につかるのと同じことなのです。こころがポカポカしてきます。

わかち合うのは、たった今、目のまえにいる人でじゅうぶん。さて、何がわかち合えるでしょう? つながり合えるでしょう? そして、こころは何を感じるのでしょう?

 

 

気づきの日記「こころの温泉浴 ♨」

人生に何か問題が起きているときに、“ 問題の原因があるように見える外側の世界をいじくるのではなく、まず自分の「こころ」こそを変えなければならないのだ ” ということを理解している方は多くなってきているように感じます。

だからこそ、むかしは不安になるたびに占い師を訪れて、あれこれの占いにお金を費やしていたけれど、本当の解決にはなっていないことに気づいて(なぜなら、その問題は片づいても、また同じスタイルの問題が勃発!)、外に見えるものを変えるためにはまずはこころを変える必要がある! と、セラピーにお金をつかうことを習慣にしました、とおっしゃる方がけっこういらっしゃいます。

外のことばかりに注意を向けて、それにあわせて自分を変えようとすると、自分のパワーを失うこととなり、結局自分が何ものなのかわからなくなってしまいます。

そこで「自分のこころにこそ取り組もう!」と決めるのですが ・・・ それでもなかなか、私たちは「自分の外側」という呪縛から抜け出すことができないでいます。

その証拠に、何か不都合な問題が起きたり、イヤな気分になってしまっているときには、かならず「自分の外側の世界」に原因を探しはじめます。

仕事がうまくいかないのはこの商品への需要が少ないからだわ(需要とうのは自分の外の世界のことです)、こんなふうにイヤな気分になるのはパートナーがあんな態度をとるからだわ(パートナーの態度も自分の外のことです)、胃がムカムカするのは飲みすぎたお酒のせいに違いない(お酒ももちろん自分の外側です)。

自分のこころに原因があるとわかったはずなのに、なぜか私たちはすぐに「外」向かおうとします。

それは、私たちのエゴが「被害者」に徹するようにとしかけてくるからです。「原因はアレだよ」「悪いのはアイツだよ」、つまり「ワタシじゃない!」。

この時点で、なんとも素早くまんまと「被害者」役に身をおいてしまったので、変えるための力は自分にはありませんと宣言したことになります。変わるためには、「原因のアレ」「悪いアイツ」が変わらなくてはなりません。

でもほんとうは ・・・ 「たった今、感じている感情」、そこにこそすべての答えがあるのです。

その問題が起きたことで、いったいどのように感じているのでしょうか?

「私はこのことの結果として、怖れを感じています」「動揺を感じています」「怒りを感じています」 ・・・ と。

結果が「怖れ」であるなら、結果が「動揺」であるなら、結果が「怒り」であるなら ・・・ その原因とはいったい何でしょうか?

そこで肝心なのが、「原因と結果はまったく同じである」という考え方です。

すると、こうなります。

「あ〜、わたしは怖れを感じていたからこそ、怖れを感じるこれを見ているんだ」「あ〜、私は動揺をかかえていたからこそ、それを正当化できる動揺する出来事を見ているんだ」「あ〜、私は怒りを隠しもっていたから、それを形にして怒りを外にみているんだ〜」

結局、「たった今」感じている怖れや動揺や怒りがあったからこそ、その結果としてこころはこれを見せているのだということ。

その感情はうまく別な出来事をでっちあげて、「こんなことが起きているから、こういう気持ちになってあたりまえだよね〜」「この外の出来事のせいでこんな気持ちになったんだよね〜」と混乱した感情のつじつまをあわせようとしてそれにあったストーリーをでっちあげるのです。

そして、私たちはそのでっちあげられたストーリーのほうに気を取られることで、本当の「原因」を忘れ「被害者」をやりはじめます。

つまり、そのつらい感情を感じたときに、まんまとエゴがでっちあげたストーリーに注意をむけ、「このせいだよ!」というセリフに騙されて、被害者ストーリーに突入し、同じストーリーをぐるぐるし、本当の解決を不可能にします。

私たちは、こころが「こうだ」と信じたものを見つづけます。

そのぐらい、私たちのこころにはパワーがあるのですが、そのパワーを間違った方向、「絶対に被害者でいたい」という間違いに向かって全力で使ってしまっているようです。

かたづけるべき、取り組むべきなのは、こころのなかに存在していた「怖れや動揺や怒り」そのもの方だったのです。外に見えているものではオトリにすぎません。

まずは、シンプルに「ああ、私はこんなふうに感じているのね」と、今の気持ちをしっかりと受けとめてあげましょう。「こんなにおびえてるんだ」「こんなに動揺しているんだ」「こんなに怒っていたんだ」と、あるがままに認めてあげます。

そして、「怖れや動揺や怒り」を感じているときには必ず、ひとりぼっちの感覚があるはずです。助けがやってこないという、見捨てられているという。

つまり、安心感が、愛が、安らぎが、優しさが感じられないのです。足りないのです。

だったら、安心感、愛、安らぎ、優しさ、光をたたえている「源」をイメージしてみましょう。

源とは、安心感、愛、安らぎ、優しさ、光をなみなみたたえて無条件に受けとめてくれる存在。宇宙といってもいいし、神といってもいいし、ただ安らぎでもいいし、光でも、なんと呼んでもかまいません。

そして、その無条件の愛とやすらぎのなかへとダイブしてみましょう。

そのなかに飛びこんで、こころゆくまでひたって、自分を忘れて、ひとつになってみましょう。

まるで、無限のあたたかな愛そのものの温泉にやさしく受けとめられて、くつろいで、癒されて、溶けてゆくように。自分を解放して、安心させてあげましょう。受けとめてもらいましょう。

愛と光と優しさのなかで、おもいきりくつろがせて、そことのつながりを感じます。それとひとつになります。

本当はこの愛と光と優しさとのつながりの感覚だけで、目にするものが変わってくるのです。

なぜなら、原因 = 結果 だからです。こころのなかに安心感がなかったことこそが、ほんとうの問題の原因だったのですね。

こころの「源」温泉 ♨ へようこそ ! どうぞ、ゆっくりくつろいでいっておくれやす♪

 

 

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お野菜いっぱい夏の和食

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

夏至を迎えても、まだまだ日が長いですね。でも、いきなりの猛暑攻撃で身体が悲鳴をあげています(汗)。

おいしいものをいただくと、身体は正直ものなのですぐによみがえってくれます。 和食のメニューほど身体へのおもいやりにあふれているお料理はない気がします。

涼しさを感じさせてくれるお野菜を使ったすり流しやおとうふ、みょうがや大葉はさっぱりと夏らしい味わいで、梅やトマトの酸味も食欲を刺激してくれます。

なだ万さんが創作和食をだしてくださるお店にうかがいました。

コーンの甘味がきいたトリュフのあんかけ茶碗蒸しとか、いちじくとハモの揚げものとか、こがしバター醤油のきいた甘いとうもろこしご飯とか(このご飯、給仕のおにいさんも大好き!と言われていました。私もドンブリでいただきたかった〜♡)。

暑さなど忘れておいしくいただける夏メニューでした。

いつまでも外が明るくて、しだいに暮れてゆく夏空をながめながらお夕食。お友だちとゆっくりとおしゃべりもできて、美味しく楽しく美しい癒しタイムでした。

今年の暑さは長丁場になりそうですね。とうもろこしご飯なんかは、おうちでも作れそうなので挑戦してみましょう。味つけは香ばしいお醤油とバターがポイントです!

 

 

気づきのぷちノート「自分をしめださない」

「気づきの日記」はかなり長々と書いてしまうので、気軽なぷちバージョンとして「気づきのぷちノート」をはじめることにしました。

ふと気づいたときにちょこっと書いて、サクっとアップしたいと思います。

さて、一回めは・・・「自分をしめださない」ということ。

「なんか流れにのっていないな〜」「行きづまりを感じるな〜」と感じるとき・・・

そんなときには、誰かにイライラしていないか、ぶつぶつ文句を言っていないか、勝手にすれば!って見捨てていないか ・・・ こころのなかを探ってみましょう。

たとえば、村に必要なもののすべてを汲みあげることができる共同の井戸があったとします。村人は毎日そこに集まって、わいわいと助けあいながらそれぞれにに必要なものを汲みあげています。

みんながそこにやってくるから、自然のなりゆきで毎日顔をあわせることになります。そしてお互いに手をかしあうことになります。

でも、嫌いな人、避けたい人がいたとしたら ・・・ その井戸にむかう足が自然と遠のいてしまうことになるかもしれません。井戸に近づきたくなくなるのです。

つまり、イヤなひと、嫌いなひとを自分から閉めだして「あ〜、これで安心!」って思っていたけれど、じつは流れから閉め出していたのは自分自身だったのです。

 

みんなで平等に受けとることができる流れのなかから、自分で自分を遠ざけてしまっていたのでした。

どんなときでも、こころのなかで閉め出すことができるのは「自分」だけなのですね。自分が大いなる流れから退いて、「ああ、安心した!」と強がっているだけだったのです。

自分を輪(和)のなかに戻してあげましょう。

 

 

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六月のショパン

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お友だちの声楽家、瀬尾美智子ちゃんの演奏会。

今回は、「ショパン大好き」というタイトルで、他の演奏家(ピアニストさん)たちとの共演です。

美智子ちゃんはポーランド語でショパンの歌曲を七曲。

はじめて聴いたときにはショパンに歌曲があったことにびっくりしたけれど、何度か聴かせていただいているうちにすっかり耳になじんで、「あ、これは私の好きな曲」とお気に入りもできました。

いつもながら、オール濁点つきの日常会話とうってかわって(いつもは「だがぢゃ”〜ん”」になってる)、いったんステージに立って歌いだすと「いったいこれは誰ですかっっ?!(驚愕状態)」とこころのなかで叫んでしまいます(スミマセン!褒めてるのです・汗)。

とってもやわらかく美しい歌声と乙女な表現にびっくり!!なのです。 この驚きも毎度お決まりなのですが、決して慣れることはありませぬ(笑)。

とっても素敵でした♡

聴いてみると、ショパンって六月にぴったりなのですね。もちろん、そんな選曲になっていると思うのですが、憂いがあって、心にやさしくしみいる旋律。「雨だれ前奏曲」はもちろんなのですが、「エオリアン・ハープ」もこの季節にぴったりでした。

「雨だれ前奏曲」はその昔、私がピアノを習っていたころの発表会用にあたえられた曲でした。でも ・・・ なんかジミで、眠くなりそうで、発表会にはもっとパッと華やかなワルツとかが弾きたかったのです。

抵抗しながら練習していたので上手になるはずもなく、先生に「ぜんぜん雨だれじゃないわよ」とまで言われ、ついに発表会の当日、熱を出してお休みしました(ハハ、ちからいっぱいの抵抗のあらわれですね)。ショパンのピアノは、そんなこんなが頭をよぎっていたのでした。

やっぱり目のまえでの演奏は、たくさん伝わってくるものを感じます。楽しかった! ありがとうございました♡

 

気づきの日記「誰もがもってる特別性という劣等感」

お友だちとランチをしたあと、立ち寄ったお店で目にとまったスカーレット レッドのサマードレス。

「A子ちゃん、こういう色似合うと思うけど着ないの?」と私。A子ちゃんはいつも静かめの色合いの装いなのです。この日は紺系。すると、「あまり目立たないようにしてきたんだよね〜」とA子ちゃん。

それは、さきほどのランチタイムの会話のつづきでもあるのです。

ランチをしながら、「最近、特別性ということが気になっているの」とA子ちゃん。

「特別性」とは、「私は人とは違う!」「秀でた自分でいよう」「スペシャルな自分になるべきだ」という信念。その下には「そのままでは何ものでもない自分だから、見むきもされない」という欠乏の想いや無価値観という劣等感が横たわっています。

つまり、「特別性」とは「自分は決定的に足りないのだ! 」と信じていて、生きることそのものがそれを「埋め合わせる」行為となります。

じつは、無意識のうちにで誰もがこの「特別性」の呪縛にしばられています。だから日常でとる行動の動機をよくよく調べてみると、すべてこの無意識の足りなさが自分を突き動かしていて、人とは違う自分へと駆り立てます。

人から好かれる「いいひと」でいたいと思って(「いいひと」にならないと愛されないと信じて)、無意識のうちにに無理にこにこしたり、気をつかっていたり、やりたくもないことをしていたりします。あるいは、一目おかれる「おもしろい人」でいるべきだと信じて(「おもしろく」ならないと消えてなくなっちゃうかもと信じて)、ジョークを連発したり、快活な自分を装ったり、サービス精神を発揮したり・・・。特別性には、いろいろな表現があるのです。

A子ちゃんいわく、昔から先生に目をかけてもらえる子どもだったとか(たしかに、A子ちゃんはたくさんの人のなかにいると、ぱっと目をひく天性の存在感がある方で、それこそがA子ちゃんの持ち味でもあるのです)。だから、特別な役に抜擢されたり、優遇されたり・・・。

しかし、いち目おかれることにより仲間のなかで浮いた存在となり、その結果、嫉妬やねたみをうけることになったそうな。

そのときA子ちゃんが子どもごころに決めたのが、「攻撃を受けないために、なるべく目立たない自分でいよう」ということ。その対策のひとつが、「目立つ色のお洋服は着ない。地味にしていよう」ということで、それが無意識のうちに今になってもつづいていたのでした。

「目立たないようにすること」は嫉妬やねたみへの解決策のはずだったのですが ・・・ これもじつは特別性の表現のひとつなのですね。「私はあなたたちとは違っている存在なの。だから隠しておこうかな」という想いなのです。

さきほども書いたように、この「特別性」は私たちの誰もがこころのなかに隠しもっているものです。

それは、「あなたたちとは違う境地にいる私」なので、「違っちゃっている私」は誰とも本当の意味ではわかり合えないし、つながれないし、仲間になれないし、じつは仲間であるとも思いたくないのです。

だから、愛や共感や豊かさや助けという供給が、自然とたたれてしまいます(特別性によって、こころを閉ざしてしまっているのです)。そして、知らないうちに自分の人生を孤独でシンドイものにしてしまうのです。

私たちの日頃の行動の動機をじっくりと観察してみると、必ず、「もっとステキな、バージョンアップした自分になる」という決意があるはずです。

そのために、手に入れたり、磨きをかけたり、フリをしたり、付けたしたり、いい人になったり、気をつかったり ・・・ とじつに忙しいのです。日常でとる行動のモトを正してみれば、じつはこの「特別性」ためホンソウする日々をすごしているというのがわかります。

勉強や仕事で努力することも、何かにガマンしてイイ人、気がきく自分でいることも、新しいことにチャレンジすることも ・・・ それによって、能力、成功、地位、名声(ほめられるなど)、豊かさ、美しさ、羨望などが手にはいって、みんなとは違った自分になれると信じているから。

そう考えると、私たちはどれだけあるがままの本当の自分というここちよさ、安心感からほど遠くなっていることか ・・・ これじゃ、リラックスを感じられるはずがありません。

ほんとうは、ここに存在して、ただ呼吸しているだけで十分なのに ( ・・・ え? そんなんじゃダメじゃない!って? それこそが、特別性の動機となっている不足感、欠乏感なのですね)。

たしかに、自分の20代、30代の忙しさやら、あれこれの活動性を見てみると、今おもえば「どれだけ自分に何かを付けたしたい」と思っていたのか! と笑えてきます。

あれこれ興味をもって勉強していたのも、もちろん今となっては役にたっているのですが、そんな「特別性」というヘンテコな動機がなかったら、もっとリラックスして楽しめたし、それによってもっと効率よく、人とのつながりのなかで同じことができたかもしれないな〜と感じます。

芸術の分野で活躍されているお友だちのB子ちゃんも、こんなふうに言われていました。「劣等感が頑張るエネルギーだとずっと勘違いして、一人まえになれるなら血の滲むような思いをしてもよい ・・・ と、今考えると、呪いの誓いみたいなものをたてて、もがいて、何かと戦っていました (・_・;  殆ど、ホラーです」と。

ホ、ホラー ・・・ でも、ひとごとだと思えません(汗)。

向上できるなら、成長できるなら、そのとき大切だったはずの「人とのつながり」をも犠牲にし、どんなに窓の外で美しい季節の贈りものという自然が微笑みかけてくれていても目もくれず、愛にも優しさにも背をむけて(当時、本人はそうは思っていないのですが、今思えばね!)、そして口ぐせは「それどころじゃない」「私は忙しい」「いつか時間ができたらね」だったりして、そんなふうに何かに驀進している自分に酔ってもいた気がします(苦笑)。

「劣等感」こそが、「特別性」の燃料そのものなのですよね〜。どんだけ足りないと思っていたことか・・・。劣等感を信じているぶん、特別性をニンジンにして永遠に疾走させられます・・・(汗)。

そんなこんなを客観的に見られるようになってきたとき、本当にただ息をしてずっと部屋のなかに坐っていることを自分に許せるようになってきて ・・・ 今じゃ、ただここちよく坐っているうちに、何時間もたっていたりします(まわりから心配されそうですが、幸せだったらいいじゃない・苦笑)。

「すばらしい私になる」という特別性の他に、うまくカモフラージュされていてわかりずらいのが「悲惨な私になる」という別の意味での「特別性」。

これは、嫉妬やねたみを受けることがなく、かえって愛情を無条件に手にすることができ、スルメのように長いあいだ使いものになる「特別性」なのですね。

でも、その結果、自分を「無力な被害者」「かわいそうな私」につなぎとめることになり、やってる自分ですらだんだん自分の正体がわからなくなってきます。「被害者のかわいそうな自分」という信念を強化してゆくことになり、本来の自分の絶大なちからを見失い、逆にその力を自分を弱めることに使ってしまうことになるのです。

どちらにしても「特別性」は「あなたと私は違うのよ」と、口にださずとも主張しているので、静かに世界にケンカを売っている行為にほかなりません。

そうすると、「つながる」というよりは、「つながれない」、「近づけない」「わかりあえない」ということになってしまいます。つまり、お山の大将は孤独なのです。山のてっぺんには一人しか立てないので、わかちあう相手がいないのです。

そしてなによりも、「あるがまま」につけ足すことに忙しくなると、「あるがまま」で受けとれるはずの贈りものが受けとれなくなってしまいます。つけ足すことに急がしてくって両手がいつもふさがっているので、宇宙から降り注ぐ自分のための贈りものに気づくことができなくなってしまうのです。

でも、いつでも「あ〜、こんなことを一生懸命していたのね」とエゴを満たすためにしていたことに気づいて、それを光にさらしてあげると(高い意識に一緒に見てもらうと)、まったく別な意味が見えてきます。違うストーリーにすることができます。

そのときはじめて、特別性ゆえに築きあげたものがわかちあう宝ものとなり、それをみんなとつながるために、みんなの気づきのために使うことができるようになるのです。

なんにしても、自分で握りしめていると「特別性」になってしまうけれど、それを高い意識に使ってもらうといつでも「自分と全員のための」ギフトになるのです。

そのときには、「人になんか理解できない特別な経験」が、「みんなが共感して、みんなでわかちあって、つながってわかりあえる体験」になるのだと思います。

「特別性」って空で、星どうしが「あなたよりも私の光のほうが強いわよ」「いいえ!わたしのほうがキラキラしている」と、競いあっているようなイメージですが、それを高い意識というひとつのものに委ねることで、その光同士がつながりあって、大きなひとつの光になることで、そこがぜんぶ光、ただただ光みたいになって、喜びあって広がってゆくようなイメージです。

A子ちゃんは、スカーレットレッドのドレスを手にしました。おうちで着てみたら、似合っていたって♪ (やっぱり!)

かつては「特別性」となっていた存在感が、わかちあうためにいただいた天賦の贈りものとして受け入れてもらえたのでした。(A子ちゃん、気づきをありがとう♡)

 

 

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あじさい♡

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昨日は雨ふりの一日でしたが、そんな日にぴったりのかわいいお菓子をいただきました。

あじさい。

かわいらしい金平糖をあつめると、あじさいになるのですね〜。

小さいころから、コンペイトウっていう言葉のひびきが好きでした。かたちもお星さまのようで可憐だし。はじめて「胡桃割り人形」の金平糖の精の踊りを聴いたときに、チェレスタという楽器の響きに「そうだよね〜、金平糖って音色にしたらこんなだよね」と感心したものです(笑)。

さてさて、どんなお味がするのかしら〜?

 

お茶の間シネマトーク「あん」

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観終わったあと、近くの桜並木に行って、しばらくベンチに坐っていたくなった作品です。

先日、C子ちゃんに会ったとき、「たかちゃん、樹木希林のあんをこねてる映画観た?」って。

C子ちゃんは飛行機のなかで観て、おもわず大泣きとなり、帰りの飛行機でまた観て泣いたそうな。

はいはい、観てはいないけれど、いっぱい賞をとってる河瀬直美さんの作品で気になっていたのです。予告のなかの、あんをこねる希林おばあちゃんの姿が印象的でした。

さっそく、TSUTAYAさんに行ってみると「あん」はあったものの。ナント棚にある7枚全部が貸し出されているではありませんかっ! 他のメジャーな作品をみても、全部出払っているなんてことはないのに。あら〜・・・ 「あん」ブームなの?

再度訪れて、やっと一枚見つけました。

小さなどら焼き屋さんの求人広告を見てやってきたのは、76歳のおばあちゃん。

「どら焼き屋といっても、ちから仕事だから」と断られるものの、おばあちゃんはあきらめないのです。時給300円、いえ、200円でもいい!と。

おばあちゃんには、どうしても働きたい理由があったのです。

そこから、どら焼き屋の店長とおばあちゃんと、そしてお店にやってくる中学生の女の子もまじえてストーリーが展開してゆきます。

このおばあちゃん、あずきを煮ながらじっと顔をおなべの近くによせているのです。店長が不思議に思ってたずねると、「あずきが見てきた雨の日や晴れの日や、そういう旅のはなしを聞いているのよ」と。

おばあちゃんにとって、ゆっくりと丁寧にあずきを煮てあげることは、あずきへのおもてなしなのです。

そんなおばあちゃんを見ながら、まわりの人々にも変化が起きはじめます。が・・・。

おばあちゃん役の樹木希林さんのひとことひとことが、心にしみいってくるようです。また、中学生役の女の子も希林さんのおまごちゃんの伽羅ちゃんで、子役養成所の役者さんでないところがかえって力みがなくってよい雰囲気です。

観終わって、木の下で深呼吸すると ・・・ ああ、風ってこんなに甘い匂いがしていたんだ〜とか、葉っぱが風にそよぐ音とか、夕暮れまえの空の色とか ・・・ 幼い頃にはちゃんと気づいていたはずのことに今さらながら気づかされたのでした。

そして、どら焼きを頬ばりたくなりました。あずきがつぶれていないおいしい粒あんの♡

涙壷度:★★☆☆☆(心にじんわりしみいります・・・)
C子ちゃん、すてきな映画を教えてくれてありがとう。

 

ホンモノ Apple ティー

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フォションの甘い香りが好き♡ とか、やっぱり王道のリプトンがいい♡ とか、フレイバードティーは LUPICIAだわ♡とか ・・・

ドライアップルをブレンドした フレイバードティーにはいろんなブランドがありますが、女子はたいてい自分のお気に入りのアップルティーがあったりします。私はむかしは、華やかな香りのフォションが好きだったけど、このごろは少し落ちついたフォートナムメイソンがお好み。

そしてこちらは、ドライではなく、ホンモノ Apple ティー。

薔薇のつぼみのように重なったリンゴのスライスが透明なカップに入っていて、つぼみの真んなかにお茶を注ぐとお花がカップいっぱいに広がります。シナモンスティックがそえらて、とってもいい香りの アップルシナモンティー。

これはお友だちのチョイスで、私はシンプルなレモンティーにしました。が、さすがキリン午後ティーのお店、「茶葉は7割が沈んだところでカップに注いで」とか、「レモンは三日月型の皮を下にしてカップのふちにそって絞って」とか(え?皮が下なの? いつもと逆)、インストラクション(ご案内?)がいろいろ。(そういえば、以前来たときのミルクティーも、「ミルクを先にカップに注いでから紅茶ね」の念おしがありましたっけ。)

スウィーツや軽食は紅茶にあうチーズ系のみのお店で、この日はふたりとも NY チーズケーキを。

しっとり、しっかり、濃厚で、レモンもきいてて、チーズケーキもおいしいけどこのマンゴーソースもかなり美味です。

紅茶よりもチーズケーキの方が印象に残るな〜 というのが感想です(笑)。チーズケーキ食べたいときは、ココです! @ Milk Black Lemon by GOGO NO KOCHA 代官山

 

 

お茶の間シネマトーク「ナミヤ雑貨店の奇蹟」

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かつて、地元のひとたちの質問やお悩み相談を請けおっていた町の小さな雑貨店。

たわいもない小学生の質問には、お店の外の掲示板に答えが貼りだされます。もっと深刻な人生相談になると、翌朝お店の脇にある牛乳箱のなかに回答がひっそりとさしこまれているのです。(劇中の若者も知らなかった「牛乳箱」。今じゃほとんどお目にかかれませんが、牛乳が毎朝配達されていた昭和の時代にはこの箱がどこのお家にもあったのですよね〜。)

悩み相談をしていた店主もいつしか年老いて ・・・ その店が閉じられてしまってから久しいある晩のこと。すでに廃屋のようになったナミヤ雑貨店に悪ガキたちがしのびこみ ・・・ その一夜に彼らが経験する不思議にも優しい雑貨店の奇蹟。

それは時間をこえて、過去や未来、そして人と人が繋がりあうえにしの物語。

この「ナミヤ雑貨店の奇蹟」が映画館にかかっていたときには、さほど興味がなかったのでした。新人俳優さんや、アイドルさんたちのプロモ的な作品かな〜 ・・・ ぐらいに思っていたから。

でも、東野圭吾原作と知って、それも「東野作品のなかで、最も泣ける話」とあり、ガゼン観てみたくなりました。

東野圭吾さんの作品はずいぶん映画化されていますよね。全部観ているわけではないのですが、私のお好みはちょっと摩訶不思議で、切なくって、でも暖かみがある作品。

いちばん最初に観た東野作品は、まださほどメジャーになっていなかった玉木宏さんが主演していた「変身」。もう十数年まえで物語の詳細は忘れましたが、切ないストーリーがずっとこころに残っていました。その後、東野圭吾さんもどんどん有名になっていかれた気がします。



テレビなどで見る「ナミヤ雑貨店」の予告では、山下達郎さんの歌声が記憶に残っていますが、劇中では門脇麦さん演じるシンガーが歌っています。

完全に達郎節の作品だと思っていたけれど、歌う方が変わるとこうも違うものかとびっくり。まるで別モノです。門脇麦さんの憂いあふれる澄んだ歌声がこころにしみわたります。



時空をこえて届くお悩み相談への回答によって、踏みはずしかけていた人生にしっかりととどまり、力づよく人生を切りひらいてゆく女性がいます。

こんなふうにずっとずっと先の未来まで見越したうえで与えられる、ぜったいに間違いのない導きがあったらいいよね〜・・・ と不覚にもうらやましく思っちゃいましたが ・・・

そうでした、あるのでした! ちゃんと私たちひとりひとりにも同様の助けが。 ひとりひとりのずっとずっと先まで見越しながら、完璧に間違えない答えを、いつなんなんどきでも手にする方法が!

この女性のように、自分の迷いに対して完全に正直になって(ナミヤ雑貨店に相談される方は、みんな自分の弱さに正直になって相談しています)、自分で勝手に回答を決めつけるのではなく、手紙のやりとりをするなかで目覚めてゆきます。

私たちも、自分の弱さに対して隠すことなく正直になって、そして尋ねることが必要なのだな〜と感じます。道に迷っていることを自ら認めて、その問いを委ねることが大切なのだな〜と感じます。

でも、私たちにはナミヤ雑貨店のポストはないので、自分のハイヤーセルフに対してこころのなかで手紙を書きます。そして、牛乳箱がないならば、そのお答えはきっとハートなかに静かにおかれることでしょう。

この女性が導かれるように人生を切り開いて、ついには自分がいるべきところにちゃんといる ・・・ というように。

涙活したいときにはオススメの一本です!
涙壷度: ★★★☆☆

東野圭吾さんの作品、いろいろと観てみたくなりました♪