furukawaさんのブログ

気づきの日記「判断・批判・攻撃という剣を手放す」

剣を手にしたとたんに、対戦相手が立ちあらわれる

・・・ なんだか、今どきのゲームのスクリーンみたいですね。

これは私たちが日々やっていることとなんら変わりがないのです。

「剣? そんなぶっそうなモノ、私は身におぼえがありません」って?

「剣」とは、こころにいだく「判断」や「批判」「ぷちイラっと」な攻撃の想いのことです。

この「剣」が合図となり、目のまえに闘いの世界が立ちあらわれます。すべては自分の「想い」から始まるのであり、自分のこころこそがスタート地点となります。

この主人公は「剣(判断・批判・攻撃)」なしでは、この世界を生き延びられないと信じています。

なぜなら、つねに自分の信じているルールをおびやかされて不安になるからです。そのため、危険を察知するやいなや、判断・批判・攻撃の「剣」をふりまわします。やられるまえになんとか優位に立ちたいからです。その剣によって自分もボロボロになるのですが、ここのキケンさにはかえられないのだと信じています。

しかし、「剣(判断・批判・攻撃)」など使わなくてすむ愛とやすらぎのゲームもごまんとある、ということをすっかり忘れています。自分のこころが「これ」を選んでいるということがわからなくなっているのです。

そろそろこの主人公も、「剣(判断・批判・攻撃)」をおいてもいいときなのです。さもないと、身体が傷だらけになりこれ以上闘えなくなるか、にっちもさっちもいかない状態においこまれることになります。

彼(彼女)は、ほんとうは何を見たいのでしょうか? どんな世界を体験したいのでししょうか? どこを目指しているのでしょうか?

ほんとうは、「その目的こそが目にするものをきめている」ということを忘れています。

私たちはどんなときにも、自分の内側の世界を外に見ています。それが見るということなのです。

 

「剣」さえない愛とやすらぎの世界は、「剣(判断・批判・攻撃)」の威力に頼りきり、「剣」によってこそ支配できると信じている者には、とうてい見ることができない世界です。

「剣」でどうにかしようとしても、さらなる怒りや復讐という闘いのストーリーをつむぐだけであって、結局のところ「剣(判断・批判・攻撃)」を握っている限りは、平和とか、幸せとか、愛というものとは無縁なのです。「剣」に頼ることでこころのやすらぎに到達することはできないと、知らなければなりません。

こころは常に「思っているとおりにしか見せてくれない」ことを、思い出さなければなりません。愛とやすらぎにあふれた世界が見たいのであれば、「剣(判断・批判・攻撃)」を大切にすることよりも、自分のこころの愛とやすらぎの想いがやどる部分にしっかりとチューニングする必要があります。

でも、長いあいだ闘いの習慣によって、闘いのみを信じるこころの部分だけがイキイキと活気づいています。愛とやすらぎ担当の部分は、まるで気絶したかのように存在が消えうせたようになっています。そのため、なかなかこころの方向を変えられずにいます。

それでもちゃんと、愛とやすらぎの部分は存在しています。それこそが、本当の自分のこころだからです。

そんなときには自分でどうにかしようとせずに、自分の正気の部分である高い自己(ハイヤーセルフ・天使といってもよいのですが、源・神からの直感などの導きを送ってくれたり、やすらかな道にナビをしてくれる頼もしい存在です)にお願いして、「剣(判断・批判・攻撃)」を頼りにしそうになっているこころを正してもらい、愛とやすらぎの状態へとこころを方向転換してもらわなければなりません。

私たちはこの高い存在に安全に守られて導かれいるという信頼の感覚なしには、なかなか安心して「剣」をおくことはできないからです。

なんせこころは、「やられてしまうに違いない、そのまえにどうにかしたい」と言いはってやめないのですから。それぐらいこわがりさんなのです。

だから、なかなか自分ひとりでは間違った考えを手放すことができません。そのため、平和な世界を見たいと思うときには、助けが必要なのです。大きな存在にすでに守られているという、「信頼」と「安心感」が必須となります。

小さなこどもでも、「ママに見守られている」という信頼のあるこどもは安心して冒険にでることができます。なにがあっても戻ってくる場所があるし、また見守ってくれている存在があるという安心感があるから勇敢になれるのです。チャレンジできるのです(そんな意味でも、こどもの頃の「安全の感覚」は大切です。)

自分にもいつでも守ってくれているハイヤーセルフという存在がちゃんといて、いつなんどきでも自分にとってのセイフティーネットになってくれるんだと信じることができていれば、剣を手放す勇気ももてるようになるのです。

この世界を生きていくとき、「剣」に頼るのか(つまり攻撃を前提とするのか)、それとももともと守ってくれている大きな存在を信頼するのか、それによって「攻撃や痛みを見る」のか「攻撃や痛みとは無縁の世界を見せてもらえる」のかが決まるのです。

「攻撃のない世界」を見るということは、高い意識の力をかりながら、自分のこころのなかにある「怖れや罪悪感の思い」を正してもらうことで、本来の怖れのないこころの状態に戻してもらうことです。

どんなときでも「自分のこころで信じていることが見える」のであれば、怖れを手放すことで、自分の世界に怖れや痛みを反映することがなくなります。

今までは自分のちからをブイブイいわせて、なんでもかんでもコントロールしようとしてきたのを、ひとつひとつ高い自己のもとにおくようにしなければなりません。(本当はそうすることこそが、いちばんの安全であり、たったひとつの間違いのない道なのですが。)

いったん高い意識にお願いするお気楽さと安全性を知ると、日溜まりでリラックスしていても大丈夫だと安心できます。そうしたら、もう誰もホラーや戦闘のストーリーのまっただ中に身を投じたいと思わなくなります。

そのためにはまず、自分の高い意識との関係を築きはじめることです。永らく断絶してきた関係を修復することです。

それは難しいことではありません。日々お友だちや家族にするように、ハイヤーセルフに話しかけて、尋ねて、信頼して、耳を傾けることです。すると、直感や自然な行動として、安全に導かれるようになるのです。

そう考えると、お友だちや家族も大切だけれど、まずいちばん最初にコミュニケーションをしなければならない存在は、自分自身の高い自己だとわかります。その高い自己との信頼関係こそが、「剣(判断・批判・攻撃)」などというチャチなものは必要ないと気づかせてくれます。

ハイヤーセルフの手をとって(ハイヤーセルフの手をとったら、もう剣は握っていられません)、愛とやすらぎの世界へと導いてもらいましょう。

「私は、闘いよりも愛とやすらぎがほしいんだった!」とはっきり自覚し、それをハイヤーセルフに伝えることで、「剣」とは無縁の本来の正しいこころの状態へと方向転換をすることができるのです。

 

 

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気づきの日記「究極の受容 “そだね〜” パワー」

私たちが問題を感知するとき、それは感情が反応しているときです(この状況は緊張する!など)。その感情の反応は、自分が信じていることに基づいて起こります(私はものごとに正しく対処できないと信じている、だからコワイ、緊張する)。

しかし私たちは、その思いの結果としてあらわれた世界のことにばかりに気をとられているのです(なぜこれはこうなんだ!この状況をどうにかしよう)。

よくよく自分のこころを観察してみると、一日じゅう世界に対する「抵抗」や「不満」のセリフがくりかえされていることに気づくかもしれません。「なぜこうなんだ・・・」「あの人がこうしていなければ・・・」「私の思うようになっていさえすれば・・・」云々。

エゴは、抵抗するか、攻撃するか、不平不満をいうか、引きこもるか ・・・ これ以外にお役目がないのです。アタマのなかに不平不満がなくなったらエゴは消え去ってしまう運命にあるため、エゴは存在をかけて抵抗し、不平不満をいいつづけるわけです。

毎瞬、毎瞬、抵抗と不満というエゴのセリフに翻弄されるあまり、「そこに問題があるから、自分が困っている」ように感じさせられてしまいます。

そしてその結果、わたしたちはあたかも問題が「存在するかのように」感じてしまうわけです。

問題が「存在するかのように」感じる? ってことは、じつは「ない」?

そうなんです。

エゴが黙るということは、「これが問題だ!」「あれが気にくわない」というラベリングがなくなるため、ラベリングがなければ問題さえ生まれることができなくなってしまいます。

私たちはつねに「こころが決めたものを目にする」ので、「これが問題だ」という決めつけがなくなることで、自ずと知覚するものが変化します。そこには、もとから存在していた完全な秩序が見えるようになり、自分にとって問題のない安全な世界を見ることになります。

安全な世界は、外からやってくるのではなく、このように内側からやってくるものなのです(安全なこころこそ、身の安全なのです)。

そのためには、抵抗せず、不平不満をいわないで、ものごとを「あるがままに受け入れる」ことが大切です。それが自分の目にする世界に平和を与えることになり、そこから自分も平和を受けとることになるのです。

でも私たちのイメージでは、「あるがままを受け入れる」ってとても非力なイメージがあるようです。「何もしないってどうなの? 」と。なんせ、力で何かを成しとげてなんぼ・・・ の世界で育ってきたのですから。いわば、「抵抗」万歳、「不平不満」最強だったわけです。

しかし、「何かする必要がある」、つまり身構える必要があると感じるのは、そもそも「それは危険だ」と感じているからです。その「危険だ」という思いこそが、じつは凶器そのもの。自分を危険な状態においてしまう原因なのです。

そう考えると、やはり「あるがまま」で力を抜くことこそ、「向かうところ敵なし!」「平和のなかにいる!」というこころのあらわれなわけです。

「あるがままを受け入れる」ということと、その静かなる「敵なし」パワーを描いたおもしろい映画があります(「チャンス」1979年)。

お金もちが亡くなりました。すると、そこに住み込んでいた庭師のチャンスは居場所を失います。

彼は街に出るのですが、じつは生まれてこのかた住みこみで庭師をし、あとはテレビばかりを観るという生活をしていたので、初めて外の世界にふれたのです。そんな彼は、目のまえで困ったことが起こるとリコモンで画面を変えようとするありさま。テレビ画面と現実の境がないのです。

しかし、チャンスの人生は世界に放り出された日から、あれよあれよというまに勝手に展開してゆきます。彼自身はまったく何もせず、ただ「見て」「受け入れて」いるだけなのに ・・・。

交通事故にあい、事故にかかわった富豪の家で手当をうけるうち、そこの夫婦にたいそう気に入られ、大統領とも友達になったり、そのうち余命いくばくもない富豪に彼の妻のその後も頼まれ、さらに次期大統領候補として追いかけまわされ・・・。しかし、人生に何が起ころうと彼はどこふく風です。

彼の静けさ(テレビを観続けることによって身についた完全なる受容)は、寛大さ、賢さとして人々の目に映り、賞賛を集めます。スマートな紳士というひとかどの人物像ができあがってゆきます。

テレビで養ったチャンスの受容力はすごいです。どんなことにも「YES」しかありません。「だって」とか「でも」など一切ありません。今はやりの「そだね〜」がすべてです。何がきても「そだね〜」です。

だから、プロのカウンセラーも真っ青の受容のお手本のような態度です。相手のなげかけには、すべてイエス「そだね〜」で答え、また共感もばっちり。たとえば女性が「悲しいの」というと、チャンスは「ああ ・・・ 悲しいね」と答え、女性も理解してもらった喜びで「やさしいのね」と彼のことが大好きになります。

彼の批判せず、闘わず、ひたすら受容する態度は、まわりからは穏やかさ、寛容さ、スマートさとして評され、あまたの女性から熱いまなざしを向けられ、実業家からは信頼をよせられ、マスコミに追っかけまわされ ・・・ しまいには、次期大統領候補として注目されるまでに。

つまり、本人はただ存在して「受容すること」をしているだけなのに、あれよ!あれよ!と人生はドラマチックに展開してゆくのです。

チャンスは、究極の受容の形です(このストーリーでは、かなりコメディチックに描かれていますが)。

批判的にならない、不平不満をいわない、「だって」「でも」を口にしない ・・・ というだけでも、自分の目にする世界に平和をもたらして大きく変化させることができます。

平和な心、おだやかな心こそが外側に映しだされて、自分に平和な世界を見せてくれる唯一の原因だからです。

世界を自分の都合のいいようにいじりまわす努力をするよりも、ただ外と闘わない(=外は安全)という態度こそが大切なのです。闘わないからこそ、受容する。受容するからこそ、ここは安全。そして、安全の証明を目にすることができる、というわけです。

真のやすらぎのある世界には、摩擦となるものがありません。チャンスは、人や世界に完全にこころを開いているので摩擦がまったくないのです。

「受容」は「この世界は安全だ」という信念のあらわれで、それこそが安全をみるために大切なことなのですね。

 

 

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早朝のお花見

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ほとんど歩くことができないほど目黒川ぞいのサクラが人気になったのは、きまってテレビでとりあげられるほか、最近は観光バスがやってくるからなのです。

中国の方、韓国の方、欧米の方・・・ いったいここはどこ? という感じです。

今朝は、お仕事まえにお花見です。通勤途中にシャッターをおしている方がちらほら。ゆっくりとサクラを愛でることができました。

サクラというと、お花見の宴会をイメージする方も多いかと思いますが、私のサクラのイメージは「静」なのです。

こころおきなく、静けさのなかで桜ピンクにひたることができました♪ サクラさん、ありがとう♡

 

どこも桜が満開ですね

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ここ目黒川の桜も年々有名になってしまい、今や身動きさえできない人出です。仕事の合間に銀行に行ってきたら、往復10分かからないはずが、横断歩道が人ごみで渡れず(歩行規制)、渡っても行き場がなく(駅に人が入れない)・・・ こんな状態ではるばる迂回することとなりました。ふ〜、しばらくこれがつづきます。

私のお花見は、人の少ない明日の早朝。

ということで、しばしお花見はおあずけですが、アフタヌーンティー行脚にて(もはや恒例)ひと足はやく桜を堪能することができました。

今回は、カメリアの丘にてサクラがテーマのお茶タイム。(はい、椿山荘です♪)うすピンク色の少し大人なアフタヌーンティーです。

たとえば、セイボリーはふきのとうと山椒のサンドイッチ(これがすごく美味!)、鯛ムースを包んだ桜餅のようなおこわ、サクラ色の最中の皮にしば漬け・・・をノンアルシャンパンとともに。

スコーンも、サクラと枝豆。

スウィーツの部も、サクラ甘酒モンブランにサクラ色のシャンパンゼリーなどなど。

そして紅茶にも桜の花が。

数あるアフタヌーンティーのなかでも、お友だちと私はここ椿山荘のアフタヌーンティーがお気に入りのひとつなのです。

もちろんどこのアフタヌーンティーも手がこんでいて渾身の出来ですが、椿山荘はやさしい味わいで、どこか和食をいただいているようなホッとした気持ちになります。

スウィーツでも、攻めの味とか(笑)、驚きの味とか、自己主張型、自己満足型、ラテン型とかいろいろありますが。私たちは、あまりカドがたっていない柔らかい大和撫子ちっくな味わいがお好みなようです、

あと、長居させてくれるのも嬉しいポイント。まだ食べ終わっていなくても、きっかり2時間で放りだされるところも多々ありますので・・・(汗)。

というわけで、すっかりお気にいりのカメリアの丘なのでした。

なんか、これでお花見終わった気分にさえなっています。(´▽`)

 

お茶の間シネマトーク「シェイプ オブ ウオーター」

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今年のオスカーは、「シェイプ オブ ウオーター」でしたね。

このギレルモ・デル・トロ監督のラブストーリーが受賞したときいて、「え?! ウソでしょ」ってびっくりしました。それもかなりの純愛ものらしいし・・・。

以前、この監督の「パンズ・ラビリンス」というファンタジーを観たとこがあるのですが・・・。

それは、ひとりの少女がツライ現実から逃避して、迷宮でさまざまな架空の生きものに出くわすファンタジー ・・・なのですが、

それがまた、このうえなくダークで血みどろ、グロキモさがハンパなくって、まさにB級ホラーな作品だったのです。

何人かのお客さんは途中で席を立った人もいましたが、私は結末見たさに胸のムカムカを我慢して最後まで頑張りましたっけ。それほどドロドロ・・・。こどもが観たらトラウマ必至ものです。(でも、グロキモさに気をとられなければ、よくできた作品だと思います。)

そんな監督なので、純愛ものってどうよ? と疑惑の思いをだきつつ「シェイプ オブ ウオーター」を鑑賞いたしました。



ファンタジーのようでありながら、サスペンスのようでもあり、どこかB級ホラーのグロキモさも残しながら、ちょっと乙女チックに、美女と野獣をうわまわる純愛っぷり。

画面全体がずっと水の底のような静かな色合いで、まるで口をきくことができないヒロイン イライザのこころの静けさからながめているようです。でも、彼女が恋をするやいなや画面に鮮やかな赤があらわれます。彼女の一途な情熱をあらわす色。

彼女が恋するミステリアスなフィッシュマンは、アカデミー賞でメーキャップ賞をとった辻一弘さんが瞳の制作をてがけているそうな。グロテスクな風貌につぶらな瞳のミスマッチで、恋に恋する女の子をあっというまにとりこにしてしまったのでした。

純愛映画といいつつも、さすがギレルモ・デル・トロ監督、彼なりのホラーなエッセンスもちりばめられていてドキドキします。

そしてエンディングでは、私なりの続編まで頭に浮かんじゃいました。

水の底に招かれたような不思議な120分間。けっこう好きです、色合いも音楽も。そしてフィッシュマンも、嫌いじゃないな〜(笑)。

 

 

オペラ ♡ 愛の妙薬

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オペラにお招きいただきました。

お友だちの吉原圭子ちゃんが、ドニゼッティの「愛の妙薬」@ 新国立劇場に出演中なのです。

オペラをまるまる鑑賞するのは何年ぶりでしょうか?! わくわくです♡

オペラについては明るくありませんが、それでもおいしいものを「おいしい!」とソク反応できるように(笑)、美しいものも「美しい♡」と素直に感じとる自信はあります。シンプルです!

圭子ちゃんは、ジャンネッタというかわいらしい村娘役。その歌声はやわらかくのびやかなうえ、ハリのある力強いソプラノで、ホール全体をやさしく包みこみます。小柄なからだのどこからこんなパワフルな音色が紡ぎだされることか・・・!あ〜ステキ、感激でした♡

「からだ」じたいを楽器とするオペラの歌い手さんの日々の苦労はたいへんなもの。デリケートなナマものの楽器をチューニングする難しさ、それは日々近くで見ていて、楽曲のお勉強以上に努力とケアを要することなのだな〜と感じいっています。

そんなこんなもあって、歌声が深〜くこころにしみいるのでした。

この「愛の妙薬」というオペラは、ニセ恋薬が巻きおこすコミカルな恋物語。

オペラというと重厚なイメージがあるけれど、これはまるでミュージカルかと思うようなポップでカラフルな演出で、舞台装置と衣装の美しい彩りに見ていてわくわくします。そして、オペラなのにたくさん笑えるのです。恋と笑いと、そしてハッピーエンドと。まさに春にぴったりの演目でした。

ああ〜、楽しかった♪ ありがとうございました。



PS 「愛の妙薬」は21日まで、絶賛上演中です。ご興味のある方は是非! 楽しいストーリーとなじみやすい楽曲、そしてすばらしい歌声が堪能できます。

 

 

いっきに春めいてきました♪

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先週のお天気はかなりの荒れ模様でした。けれど、たっぷりのおしめりのおかげでにわかに春めいてきました。

お花もひらきはじめ、

枯れ木立のようだった木々も、うっすらと萌葱色。

あと一週間ほどで、花咲か爺さんも大忙しですね。

 

 

気づきの日記「パターン化した問題を克服するには」

Q: いつも同じ問題をくり返している気がします。どうしたらいいのでしょうか? だんだんうつ手がないように感じています。

A: そうそう! よく観察してみると、いっつも同じことのくり返しじゃない!?(汗) ということ、よくあります。

うつ手がなくて「無力感」を感じている? それは、それは、オメデトウございます! (*´︶`*)

ヨイ知らせです、それは。なぜなら、「無力感」を感じない限り、私たちは「自分のやり方」というものが古くて役に立たない、ということに気づくことができないからです。気づかなければ、手放すこともできません。

行き詰まったと感じたときこそ、やっと正しい方向転換へと腹をくくることができるのです。

私たちが永らく本当だと信じてきたことの多くは、役に立たないどころか、少しづつ自分の首を真綿で締めあげるように自分自身を破滅へと向かわせるものだったのです。

でも、そのことは本当に苦しくなるまでは、なかなか気づくことができません。

くり返し起こる問題 ・・・ パートナーシップや職場での人々との葛藤、自分のこころのクセから起こる苦しさ、経済的な困難やらキャリアにかかわるあれこれ。乗り越えた!と思ったら、ありゃ!? また同じことが起こってる? いち難さって、またいち難。そんなくり返しです。(あきらかに、何かがうまくいっていないわけです。)

そんな問題に直面すると、私たちは自分の知識を総動員して、あるいは人の知識もかりながら、選択し、決断し、努力をし、頑張ってゴールを目指します。

でも、私たちが「行動」というものを起こすとき(どんな行動であろうとも)、それは何かを手にするためであり、何かを手にしたいと思うときは必ず欠乏感があります。そして、その欠乏感の根底にあるのは怖れです。つき詰めれば、欠乏のはてに「死んじゃうよ〜!」という怖れ。

そこで思い出さなければならないのは、「動機」と「結果」はイコールである、ということ。

私たちが「行動」を起こそうとするときは決まって、「怖れ」ています。すると、このルールどおり、どのような行動をとろうとも、努力をしようとも 、それは「怖れ」から発するものであり・・・ 何をしようとも、スタート地点と同じ「怖れ」に戻ってきてしまうということなのです。

頑張ったのに、着いたところは同じところ ・・・。

怖れを感じているのはいつも「個人(エゴ)」であり、「個人」として考えているときには、それはまるで針の穴から世界全体をのぞいているようなもので、ほんのピンポイントでしか見えていないために、何も正しい決断ができない状態です。

小さな個人が使う思考というもの自体が、個人の限られた経験と狭い視野をベースにしたものなので、これを今起きている状況にあてはめようとすると過去と同じパターンになるのです。

目のまえにある現実というものは、たった今、この瞬間にあるものなので、じつは過去とも未来とも関係をもたない(時間軸にない)ものです。

その現実を真新しい絵にたとえると、過去の思考を使うということは、そこに古いびたカピカピの絵の具を塗りたくり、過去とまったく同じ古びたものに変えてしまう、ということなのです。案の定、以前と同じに見えます。

「怖れ」からスタートした問題解決が「怖れ」に帰着することと同様に、「思考」で解決しようとすることもうまくいかない原因のひとつです。せっかくのまっさらな新しいものに、いつも過去という古く重たい絵の具をべったりとぬりつけることで、それを新鮮みのない同じパターンのものに変えていたということなのです。

だから、「怖れ」に基づいた意図や行動や努力も、また「考えること」で解決しようとすることも、自分の足をひっぱり過去につなぎとめる結果となり、同じことがくり返されているように感じるのです。

では、どうすればいいのか? というと、「なにもしないこと」なのです。

状況に対して、降参します。明け渡します。

「なにもしない」なんて、私たちの常識ではいちばん無力で、いちばんふがいなく、いちばんおバカで無意味に感じられることかもしれません。(そういった意味で、価値観を180度変えて方向転換する必要があるのです。)

どのような問題にしろ、問題の解決の鍵は「受容」、「受けいれること」に尽きます。(コントロール、抵抗、努力、意図のない状態です。)

「受けいれる」とは、個人(エゴ)がないこと。つまり、思考のストップ。沈黙。明け渡し。開放性。あるがままとして赦すこと。自分が見ている画面とひとつであること。自分が世界になること。

目のまえの状況に対して、口を開かず、手もふれません。つまり何ひとつ文句を言わず、コントロールしようとしない状態で、完全に受けいれて、流れに身をまかせること。

受容しているときには、「私」という小さな個人がいなくなり、全体のなかからすべてが生まれてきます。そして、それは過去のパターンに縛られない真新しいものであり、正しい反応なのです。(しかし、個人が口を出したとたんに、過去のパターンに塗り替えられます。 ご注意を!)

インドの賢者も「受容が起こると、カルマを超越し、カルマは無効にされる」と言われていました。

「受けいれる」ことで、すべては生まれてきた源(気づき)のなかへと消え去ります。それが本当の問題の終わりです。

「自分が誰であるかわかるまで、問題はなくならない」といいます。

それは、自分というものが自分が見ている画面のなかの小さな個人だと思っているうちは、世界との軋轢はなくならないということです。

自分の見ている意識のなかに世界のすべてが納まったとき、全体が調和する解決策が浮かぶようになるようです。それが正しい視点であり、正しい解決策。

だから、個人であるエゴが自分だと信じているうちは、問題が見えてあたりまえであり、自分が意識であるということに気づきはじめると、その考え方にあった世界が知覚されるようになります。

つまり、個人が退くことによって、本当に自分がイキイキと姿を現すようになり、そこから正しい流れが生まれるようになるのです。

だから、同じような問題がくり返されていると感じるときには、あせっていつものパターンで解決策を考えることなく、まずはじっくりと「受けいれる」ということに徹してみましょう。

そして、「受けいれる」ということをはじめると、とてつもない感情の大波に出くわしたりします。

あまりにも大きな感情で、手におえないように感じるかもしれません。

じつは「問題」とは、その大きな感情を避けて隠し通しておきたいがために、カモフラージュとして気をそらすために使っていたものです。「問題」にかかづらっていさえすれば、この感情に気づかなくてすむ、向きあわなくてすむ、とばかりに。

だから、直面して受けいれて感じなければならないのは、その「感情」そのものなのです。その「感情」を処理しない限りは、問題を作り出すことをやめられません。

さて、この避けつづけてきた感情をどう「受けいれ」ましょうか?

大丈夫、個人としてでなく、気づきのスペースのなかで「名札・言葉・セリフ(怖い・つらい・・・)」をつけずに、ニュートラルな「感じ」としてただ感じてみてください。

そう ・・・ ただバリバリッと感電するような感じです。強い衝撃を感じるかもしれませんが、感電と同じです。名札をつけなければ、ただの「感じ」となります。ただそれが通りぬけて行くだけです。

そしてそれは、その意識のスペースのなかに溶けて消えてゆきます。ついに消滅します。終わりとなります。

そしてようやく、真の問題の原因となっていたイヤな感情を片づけることに成功します。

そして感情を片づければ片づけるほど、意識(気づき)としての自分の解放感や安らぎを感じることができるようになります。ものごとが正常な流れとなるのです。

パターン化している問題を見つけたら是非、勇気をもって「受けいれて」、こころのお掃除をしましょう! 脱パターン化をはかりましょう!

そのうち、今までの縮こまって怯えている小さな自己ではなくて、ゆったりどっしり自由な自分が姿をあらわし、そのなかで人生が違った見え方がするようになるかもしれません。

「受けいれる」ことを練習して、春とともに新しい現実を迎えいれてみましょう♪

PS 同じ問題がくり返されるとき、正しく対処していても、依然として同じ問題がくり返されることもあります。

それは、処理が順調に進んでいる場合です。ハイヤーセルフが「順調にいっていますね。じゃあ、いらないこころのなかのジャンクをどんどん片づけてしまいましょう」ということで、同じようなイメージでそれが見えるためにくり返しているように感じる場合もあるのです。

その場合には、じゃんじゃん受けいれて、こころをさっぱりして、真の自分を取り戻しましょう!

 

 

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今年のアフタヌーンティー、第一弾は

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今年もアフタヌーンティー行脚の旅がとまりませぬ。

いろいろいただいてみてわかったけれど、同じような見た目のアフタヌーンティータワーでもクオリティには大きな差があるということ。とっても可愛いのに、けっこう大味ってこともあるのです。

今回のマンダリンオリエンタル東京はいかがでしょうか? ここはアフタヌーンティーファンにとっては、人気の高い巡礼地です。

ラウンジは、ホテル最上階の38F。わあ〜、いい眺め。これもお茶のおとものひとつです。

タワーはこんな感じの盛りつけ。

お茶は、大きめのカップで一杯づつ出されます。ポットの残りを気にすることがないので、次々いろいろなテイストを楽しむことができるというメリットが。私たちは、七〜八杯のお茶と珈琲をいただきました。難点といえば、「おかわりいかがでしょうか?」とひっきりなしに声をかけられるため、少々気ぜわしく感じるということもあります。

春らしくお花が飾られたセイボリーのプレイト。

もっとも地味なルックスのハート型サンドイッチが、意外にも驚くほどのおいしさ。さりげないものがもっともおいしい! ホテルの実力ですね。(これはクリーム状のチーズとハムがフィリングで、パン生地にいちごが練りこんでありました。)

スウィーツの部 その1は、タルトにゼリーにムース。どれも手がこんでいます。リンゴ型のスウィーツは、アールグレイのムースをチョコでコーティングして、まんなかにラズベリーがひとつ入っています。台座のサブレもおいしい。

スウィーツの部 その2は、マカロン、シュークリーム、チョコレートケーキ。どれも愛らしいです。このプレートはしっかりとした甘さのスウィーツなので、濃いめのカフェラテのほうがあいます。

あと、チーズとレモンのスコーンにイチゴジャムとレモンカード、クロテッドクリームぞえ。スコーンはおかわりをききにきてくれます。ランチを食べてなかった私たちは、モチロンお願いしました!

どれも丁寧に作られていておいしいけれど、人間の反応ってとっても正直。やっぱりとびきりおいしいものは率直に「オイシイ♡♡」と声のトーンとボリュームが数段あがってしまいます。ほとんど動物的反応(笑)。お友だちと同じところで連発しているので、やっぱりそれらは間違いなく美味なのでしょう。

お時間はきっちり2時間制なので、時計を横目にせっせといただくアフタヌーンティーでした(笑)。

日本のアフタヌーンティーはホント職人技レベルで手がこんでいますが、本場のイギリスとかはここまで可愛くないのではないでしょうか? 海外のアフタヌーンティー、有名どころで何度かいただきましたが、まったくもって記憶に残っていません ・・・(汗)。

 

 

気づきの日記「笑ってはいけない!ならぬ、文句を言ってはいけない!」

はじめてダウンタウンさんのある番組を見たとき、最初はその主旨がつかめず「いったい何をしているのだろう?」とわけがわからなかったものです。

それは「笑ってはいけない」シリーズ。大物タレントさんたちの意表をつくヘンテコな出しものの数々は、間違いなく笑いのツボをおしまくるのですが、それでも「絶対に笑ってはいけない!」のです。もし笑ってしまったら、お尻をたたかれたり、タイキックや罰をくらうことになります。だから、こらえるこらえる。

笑いは、笑おうと思って笑うわけではなく突発的に起こる反応なので、みんなどうにもならずにバシバシ罰をくらいます。

笑うまいとしても笑っちゃうのを止められないからこそ、次から次へと笑いを仕掛けられるし、見ているこちらも笑ってしまうのです。

「笑う門には福きたる」で幸せになるには笑うことは欠かせません。しかし、じつはもっと確実に幸せのために役だつ地道なこともあるのです。

それはなにかと言うと、「文句を言わないこと」なのです。

だから、もし私がダウンタウンさんのような番組を作るんだったら(笑)、「笑ってはいけない」ではなくって「文句を言ってはいけない」となります。

「文句? そもそも、そんなに文句なんて言ってないから、ピンときませんけど」って?

ハイ、たしかに声に出して正面きっては文句を言わないかもしれません。だからといって、言っていないというわけではありません。本当に自分自身に正直になったとしたら、誰でもこころのなかでは文句のオンパレード、文句のたれながし状態であることに気がつくかもしれません。

文句というのでわかりづらいようであれば、「批判すること」、あるいは「ムっとすること」「見下すこと」「ひとこと言っちゃうこと」「自分のやり方にしたいこと」。これらは、みんな文句です。

コントロールできない笑いと同じで、文句もいつ、どんな場面で飛びだしてくるのか、自分でもまったくわかりません。

そして、じつはこの無意識のうちに日々やってしまっている文句こそが、自分が目にする世界の彩りや安らぎ感を決定的に決めている重要な要素なのです。

文句を言うことで、自分の目にする世界にどんな影響がでているのかというと ・・・。

文句を言うことは、ひとつの流れである「あるがままである、そのままのもの」(完全無欠であるひとつのものと考えるといいと思います)に対して、挑戦をいどんでいるのです。いちゃもんをつけて、あるいち部分だけ切り離してしまうように攻撃しているわけです。

完璧にしあげられた一枚の絵があるとして、それに対して「この部分はないほうがいいでしょ」「ここはおかしいでしょ」と色を変えたり、切り取ったり、構図を変えたり ・・・ 自分の好みでメタメタにしているようなもの。

何の問題もなかったところ(完全な一枚の絵)に、「私」の好みという他の誰も理解できない個人的な理由でケンカを売っているようなものなのです。

メタメタにしちゃったあげく、なぜか自分でその惨状をなげいているわけです。本当は、自分があれこれ言うまでは何の問題もなかったはずなのに ・・・ です。

そして私たちは無意識のうちに、自分がメタメタにしたのがわかっているので、罪悪感を感じます。

罪悪感を感じているということは、それに対する裁きがあって当然であると信じているので、外側に自分に対する裁きを見るようになります。

それが自分にとっての、問題や困難となって見えるというわけです。たんに自分自身の「文句を言う」気持ちが外側に投影されたものを見ているにもかかわらず。

だから、「あるがまま」であるものをただあるがままにしておくためには、「文句を言ってはいけない!」のです。

あの「笑ってはいけない」で次から次へと笑いが仕掛けられてくるように、私たちのエゴも次から次へと不平不満のポイントに見えるようなことを仕掛けてきます。裁け裁け、そして苦しめ苦しめと。

「ホラ、見てごらんよ。あの人、あんなことしているよ。間違っているよね。おかしいよね。ヘンだよね」「この人、こんなことも知らないんだよ。恥ずかしいよね。笑っちゃうよね」「あきらかに、この人より自分のほうがうまくできるよね。優れているよね」「何やってるんだよ。ダメだな〜」「ホント、みんなおバカさんばっかりだよね」 ・・・ と次から次へとけしかけます。

エゴはすぐに飛出してきて、すかさず口を開くことで「あるがまま」を台無しにしようとします。本当にどれだけ巧妙に「優越感を感じようとしているのか」「自分のほうが上だと思おうとしているのか」気づいてみてください。ほんの小さなことでも、目のまえにいる相手と競争しているのに気がつくかもしれません。

そして、エゴのこんなくちぐるまに少しでものってしまうと、さらに自分の罪悪感をふやすこととなり、その結果として自分の人生に困難をふやすことになってしまいます。

でも、突発的に「文句を言ってしまった」としても、あの番組のように誰もその場ではお尻をたたきにやってきません。だから、ついつい気づかずにやりつづけてしまいます。そして、知らず知らずのうちに嬉しくない現実を目にするようになってしまうのです(だったら、その場でお尻をたたいて矯正してもらったほうがずっと親切ですが・・・)。

ほんとうのところ、やってくる現実に対しては、「口を開いてはいけないし(文句を言ってはいけないし)」、「指一本ふれてはいけない(コントロールしようとしてないけない)」のです。

「そのままであるものを、あるがままにしておくこと」こそが、私たちがしなくてはいけない唯一のこと、と言ってもいいかもしれません。

どこまでじっとしていられるでしょうか? 口をつぐんでいられるでしょうか?

そのとき、エゴが何て叫んでいるのか、耳をすませてみましょう?

「早く攻撃しないと(文句を言わないと)、自分の無能がばれる」・・・とでも言っているでしょうか? そう、すべての攻撃は怖れからやってきています。

そんなエゴの動きを観察してみてください。ただシラ〜っとながめてみてください。

ただ静かにエゴの動向を見守ることで、エゴはすごすごとおとなしくなります(お尻をたたかなくってもね)。

なので、どんなポイントで無意識のうちに裁いているのか、文句を言っているのか、不平不満を並べているのか、ムカっときているのか ・・・ エゴの動きを観察してみましょう。

ただエゴの動きに気がついて、見ているだけで、のっとられることが少なくなります。万が一、エゴのくちぐるまにのってしまったとしても、すぐに気がつくようになり、それ以上つづけられないし、またやめられるようになるのです。

あるがままの現実に対して口を開かないこと、つまり自分のこころのなかの文句が減るだけで、目にする世界の様相が変わってくるのに気がつきます。

「あるがまま」というものを信頼できるようになるし、また「あるがまま」を受けいれることでまったく新しい可能性というものに気づくようになります(同じ反応から生まれていた旧いパターンから解放されます)。

なぜなら、目にする世界のキケンは、自分のからだ全体から出しているハリ(そう、ハリネズミのように)が、世界という鏡にうつっていただけだったのですね。

どのような世界を目にしようとも、結局それは自分の考えの結果なのですね。

お笑いで人生に華をそえることも大切だけれど、「文句を言わない」ことでありもしない問題をわざわざ作りださないこともとても大切なことです。

思わず「文句を言っちゃったら」、こころのなかで笑いながら自分のお尻をたたいておきましょう。こうして気づいていくうちに、文句を言いそうな気配に気づいてくいとめられるようになり、まただんだん文句の数も減ってくるようになります。

ゲーム感覚で楽しんじゃいましょう!

 

 

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