火曜日, 2月 28 2017

火曜日, 2月 28 2017

気づきの日記「スピリチュアルの間違いさがし」

「ことば」って、いつのまにか違った意味でひとり歩きしてしまうことがあります。

気がついたら、ぜんぜん違うことになっていたりして・・・。

真理をあらわしていることばも、スピ系の本などではだいぶずれた理解になっていたりして、それが当然のようにあちこちで使われてしまいます。

たとえば・・・

【ワンネス、ひとつであること】

これって、すべてはひとつだから「あなたは、わたしだよね!」みたいな。

だから、理解がすすめば「あなたが完全にわたしに見える」はずだ・・・と。字面だけで考えるとそういうことになるのかもしれませんが・・・。

「あなたが、わたし」というように、個人が個人に対して感じることはまだ分離感があって、じつはワンネスとはほど遠いのです。ワンネスの感覚って、自分という個人がいなくなって、全部のなかに溶けちゃったけど、でもすべてがただ存在しているという、ただ「ある」感覚。

決して「個人」のレベルのことではないのですね。

それから ・・・

【あるがままに見る】

「価値判断をしなければいいのね。それがあるがままに見ることね!」 って思います。

でも、わたしたちが「見ている」とき、すでに価値判断は起きています。そうでなかったら、ここがどこだか、これが何だか、自分が誰だか(人間であるかも)、まったくわかりません。

だから、わたしたちが知る意味での「あるがままに見る」は、記憶喪失になるか、アルツハイマーにならないかぎりは達成されないように思えます。

本当の意味での「あるがままに見る」って ・・・ 「本当はなにも起こっていないんだ」ということを見ていること。

起こっていること(自分も含めて)は、みんな「気づき(意識)」というスペースのなかのかげろうのようなもの。現れては消え、消えては現れる ・・・ そして、どんなものも、なんの原因もなく、原因がないから結果もない ・・・だからなにも起こっていない。(う〜ん ・・・ 言葉にするとそうとう重篤な精神障害レベルに聞こえるな〜・笑)。

「なにも起こっていないんだ」っていうことを「あるがままにわかっていてね」、とでもいったらいいのでしょうか。そこには、なんのドラマもないのです。

あるいは、【与えることは受けとること】

これも、「豊かになるために与えましょう!」みたいな、下心まんさいな解釈になってしまっています。

「そっか〜、与えたら手にはいるのね!」って。「あれ?与えたけど、まだ戻ってこないな〜」みたいな。

これ、ほとんど取引ですね。

この「与えることは受けとること」というのは、モノのことではないのです。

自分がさし出す考え方のこと。

この世界は鏡のように、自分のなかのものを外に見る仕組みがあります。それはたいてい都合よく使われていて、自分のなかに隠しもっているこころのゴミの山を外にまき散らして、「あ〜、世のなかも、人も、みんな汚くってこまっちゃう!」といいはなち、自分は汚れなき人になった気分になります。自分のこころのお部屋はきれいになったな〜って。

つまり、自分の罪悪感を外の世界に投影して、自分は解放されるということ。わたしたちは、これを無意識のうちにやっています。

だから、「与える」ということは、この相手にかぶせてしまった自分のゴミを撤回して、ゴミのかわりに光をなげかけて本当の姿を見てあげるということ。

そうすると、ここは鏡の世界なので、相手(鏡)が美しくなるとおのずと自分も美しいのがわかるようになるのです。

だから、「与える」ということは、自分の間違い(相手に対する間違った見方)を正すことでもあるわけです。

あなたは美しいです、そのままでいいです、完璧です、という考えをさし出す(与える)ことで、それを自分も受け取り、自分がどのような存在であるか確認できる、実感できるということなのです。

あともうひとつ。【欲しいものを、宇宙(神)にお願いする】

わたしたちはなにか欲しいときには、「神さま、叶えてください」と無宗教のひとでさえお願いします。

じつは、「お願いする」ということには副作用があり、逆の効果を生むのです。つまり、お願いすると手に入らない。

なぜかというと、お願いするというのは、「私」という個人がいて、その人ががんばって何かを達成しなければならないと信じていることの現れです。

これは、「私」という分離した、切り離された、つながっていない、ひとりぼっちの、見捨てられてた、なんの供給もない個人を強調することであり、分離感(じつはありもしない分離なのですが)のミゾを深めることになります。そして、そのミゾを埋めるためにもっともっとたくさんのものが必要になります。

お願いするよりは、「私」という個人の分離感を手放そうとすることの方がずっと役にたちます。

個人を手放して、すべてであるものである宇宙(神)のなかに溶けこむ ・・・ それこそが、自分はすべてを持っていることを自分に教えてあげることなのです。

感覚的なことをことばにするのはむずかしい〜!(汗) だからこそ、なんかズレた意味でとられてしまうのでしょうね。

また、気がついたら書きま〜す! ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

 

17-02-28 スピリチュアルの間違いさがし

「ことば」って、いつのまにか違った意味でひとり歩きしてしまうことがあります。

気がついたら、ぜんぜん違うことになっていたりして・・・。

真理をあらわしていることばも、スピ系の本などではだいぶずれた理解になっていたりして、それが当然のようにあちこちで使われてしまいます。

たとえば・・・

【ワンネス、ひとつであること】

これって、すべてはひとつだから「あなたは、わたしだよね!」みたいな。

だから、理解がすすめば「あなたが完全にわたしに見える」はずだ・・・と。字面だけで考えるとそういうことになるのかもしれませんが・・・。

「あなたが、わたし」というように、個人が個人に対して感じることはまだ分離感があって、じつはワンネスとはほど遠いのです。ワンネスの感覚って、自分という個人がいなくなって、全部のなかに溶けちゃったけど、でもすべてがただ存在しているという、ただ「ある」感覚。

決して「個人」のレベルのことではないのですね。

それから ・・・

【あるがままに見る】

「価値判断をしなければいいのね。それがあるがままに見ることね!」 って思います。

でも、わたしたちが「見ている」とき、すでに価値判断は起きています。そうでなかったら、ここがどこだか、これが何だか、自分が誰だか(人間であるかも)、まったくわかりません。

だから、わたしたちが知る意味での「あるがままに見る」は、記憶喪失になるか、アルツハイマーにならないかぎりは達成されないように思えます。

本当の意味での「あるがままに見る」って ・・・ 「本当はなにも起こっていないんだ」ということを見ていること。

起こっていること(自分も含めて)は、みんな「気づき(意識)」というスペースのなかのかげろうのようなもの。現れては消え、消えては現れる ・・・ そして、どんなものも、なんの原因もなく、原因がないから結果もない ・・・だからなにも起こっていない。(う〜ん ・・・ 言葉にするとそうとう重篤な精神障害レベルに聞こえるな〜・笑)。

「なにも起こっていないんだ」っていうことを「あるがままにわかっていてね」、とでもいったらいいのでしょうか。そこには、なんのドラマもないのです。

あるいは、【与えることは受けとること】

これも、「豊かになるために与えましょう!」みたいな、下心まんさいな解釈になってしまっています。

「そっか〜、与えたら手にはいるのね!」って。「あれ?与えたけど、まだ戻ってこないな〜」みたいな。

これ、ほとんど取引ですね。

この「与えることは受けとること」というのは、モノのことではないのです。

自分がさし出す考え方のこと。

この世界は鏡のように、自分のなかのものを外に見る仕組みがあります。それはたいてい都合よく使われていて、自分のなかに隠しもっているこころのゴミの山を外にまき散らして、「あ〜、世のなかも、人も、みんな汚くってこまっちゃう!」といいはなち、自分は汚れなき人になった気分になります。自分のこころのお部屋はきれいになったな〜って。

つまり、自分の罪悪感を外の世界に投影して、自分は解放されるということ。わたしたちは、これを無意識のうちにやっています。

だから、「与える」ということは、この相手にかぶせてしまった自分のゴミを撤回して、ゴミのかわりに光をなげかけて本当の姿を見てあげるということ。

そうすると、ここは鏡の世界なので、相手(鏡)が美しくなるとおのずと自分も美しいのがわかるようになるのです。

だから、「与える」ということは、自分の間違い(相手に対する間違った見方)を正すことでもあるわけです。

あなたは美しいです、そのままでいいです、完璧です、という考えをさし出す(与える)ことで、それを自分も受け取り、自分がどのような存在であるか確認できる、実感できるということなのです。

あともうひとつ。【欲しいものを、宇宙(神)にお願いする】

わたしたちはなにか欲しいときには、「神さま、叶えてください」と無宗教のひとでさえお願いします。

じつは、「お願いする」ということには副作用があり、逆の効果を生むのです。つまり、お願いすると手に入らない。

なぜかというと、お願いするというのは、「私」という個人がいて、その人ががんばって何かを達成しなければならないと信じていることの現れです。

これは、「私」という分離した、切り離された、つながっていない、ひとりぼっちの、見捨てられてた、なんの供給もない個人を強調することであり、分離感(じつはありもしない分離なのですが)のミゾを深めることになります。そして、そのミゾを埋めるためにもっともっとたくさんのものが必要になります。

お願いするよりは、「私」という個人の分離感を手放そうとすることの方がずっと役にたちます。

個人を手放して、すべてであるものである宇宙(神)のなかに溶けこむ ・・・ それこそが、自分はすべてを持っていることを自分に教えてあげることなのです。

感覚的なことをことばにするのはむずかしい〜!(汗) だからこそ、なんかズレた意味でとられてしまうのでしょうね。

また、気がついたら書きま〜す! ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング