土曜日, 5月 13 2017

土曜日, 5月 13 2017

気づきの日記「エゴのワナにはまらない」

手術入院をしている○ちゃんのお見舞いに行ってきました。

聞いてみると、身体のことのみならず、仕事や人間関係、環境の変化など、現在ありとあらゆるところに問題が噴出していて「怖れ」にみまわれているとのこと。

そう・・・こういときってあります。これでもか!っていうぐらい、いろんな問題が束になってかかってくるときって。そして、「怖れ」という大波にのまれそうになります。

そんなときは、目のまえの問題をどのように解決するべきか・・・ と判断、分析、対処にアマタを忙しくして、考えることに疲れはててしまったりしますが・・・ これは、じつはエゴの思うツボ。

問題を解決しようと問題に集中してしまうことが、まんまと苦しみを深める方向に向かっているとは、そしてエゴのワナだとは、ついぞ気がつくことができません。

「怖れ」を感じてたら、誰でもその「怖れ」の原因(出来事)をどうにかしようとします。それこそが問題の解決法だと。

しかし、ほんとうは「起こっている出来事」が原因で「怖れ」を感じているわけではない、ということになかなか気がつけません。

「怖れ」ゆえに、これらをなんとかしなくては!と焚きつけられていますが、これはエゴがしかけている巧妙なワナなのです。

コワイからそれらをなんとかする・・・ 出来事をどうにかするのにやっきになる ・・・すると、肝心の「怖れ」という感情がないがしろにされてしまいます。「怖れ」そのものに対峙することがないのです。そのかわりに、怖れの原因のように見えている偽の原因(出来事)をいじくりまわすことになります。

本当は、「そこで起きている出来事」と「感情(怖れ)」は、連動しているものではない、つまり関係がない、ということを誰も教えてくれません。

こんなふうに考えてみてください。

ある映画を観ているときに感じる感情は、ひとりひとりまったく違います。同じ映画を観たからといって、全員が同じ気持ちになるわけではありません。

先日、三人で「ラ・ラ・ランド」を観に行ったという友人が、「他の二人が涙している理由がさっぱりわからなかった」と話してくれました。

同じ映画を観たからといって、全員が同じところで同じ感情を感じるわけではありません。そこに映しだされていることに、自分の過去の感情が反応しただけなのです。

だから、何かを見て涙するときには、じつは自分のなかにある感情をそこに重ねあわせて涙しています。映画によってそのように感じているのではなく、映画はたんにその秘められた感情を刺激し、引っぱり出す何かであっただけなのです。

それと同様に、目のまえで起きている出来事も、じつは自分のなかで過去に抑圧した「感情を刺激する何か」なわけです。

だから、同じことが起こっても、笑ってすませる人もいれば、立ち直れないほど傷つく人もいるわけです。

エゴは、その目のまえの出来事こそが原因で「怖れ」を感じるんだ!と言いはります。そして、それこそを解決するためにあれこれ奔走することに向かわせます。

そうすると、「怖れ」はそのまま温存されて、またすぐに顔を出してくるのですが、そのときにはまた目のまえにある別なことを「怖れ」の原因だと思いこませ、今度はそれをどうにかしようと一生懸命になります。

こんなふうにして、「怖れ」の感覚はずっと大切にされることで、同時に問題もつくられつづけます。

このからくりがわかってから、わたしは「怖れ」を感じるたびに「逃がすものか!」とばかりに正面から感じることにしました。

そのときわたしが感じていたのは「なんかモヤモヤ」という程度の感情だったのですが、時間があったので湯船につかりながらそのモヤモヤにじっとフォーカスして感じつづけていました。

感じるときには、なるべく身体の感覚に敏感になってみます。手がびりびりとか、胸がどきどきとか、アタマががんがんとか、胃がどくどくとか・・・。そのフォーカスがあいはじめるや、だんだん両手がびりびりしはじめて、それが両足に広がって、そのうち全身がばりんばりん。あなたは、電気ナマズですか?!(笑)というぐらいすごいエネルギーです。

ひゃ〜!なんかモヤモヤぐらいの小さな感情の下に、こんな大きなエネルギーの塊が隠されていたなんて ・・・。ほんとうにしびれすぎて湯船から一歩も動けないような状態で、でもせっかく出てきたこの感情を感じないなんてもったいないという思いで、おそらく20分以上びりびりとじっくり感じつづけていたと思います。

そのあとお風呂から出たあとも、ずっと手のひらと足がじんじんしている感じは残っていましたが、なんか視野がすっきりとしたような、たしかにかなり大きなお荷物がなくなった気がしました。

そのとき感じたのは、わたしに限らずみんな、どれほどの大きなエネルギーを抑圧して、ないふりをして生きているのだろうということ。

その抑圧して、出てこないようにして、感じないようにして生きることこそ、ものすごいエネルギーを浪費しています。自分のもつ膨大な自由なエネルギーを、隠すことと、押さえることにつぎこまれてしまいます。

そしてその感じられていない感情の抑圧こそが、怖れや罪悪感、自己嫌悪、無価値観となって、それぞれの生きづらさにつながるのだな〜と感じます。

その後おもしろいことに、今までだったら「怖れ」を感じそうな状況に出会っても、それらが「たんなる対処すべき出来事」となって、必要以上に自分をおびやかすことがなくなったということ。

なるほど〜。怖れがなくなると、ただするべきことをするだけなんだな〜、わざわざ問題にならなくなるのだな〜と気がつきました。

そして、「怖れ」がなければ、ものごとはそうであるようにただ出来事として流れていくのだとわかりました。

先日のブログでも「感じること」について書いたばかりですが(「今感じていることに気づいていますか?」)、そこで感じている「感情」をただ感情として感じてあげることで、出来事とというのはニュートラルなものになっていくようです。

エゴは「怖れ」をつかって、つい出来事のほうにフォーカスさせようとしますが、それをしてしまうと解決されないままの感情がほかの出来事とドッキングしてまた別の問題がつくりだされます。

エゴはじつは「怖れ」そのものなのです。だから、感じられてしまったら、消滅してしまうので困るのですね。

だから、「怖れ」に正面から向かっていくことは、エゴのワナに翻弄されることなく、エゴそのものを消滅させる方法なのです。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング )

 

17-05-13 エゴのワナにはまらない

手術入院をしている○ちゃんのお見舞いに行ってきました。

聞いてみると、身体のことのみならず、仕事や人間関係、環境の変化など、現在ありとあらゆるところに問題が噴出していて「怖れ」にみまわれているとのこと。

そう・・・こういときってあります。これでもか!っていうぐらい、いろんな問題が束になってかかってくるときって。そして、「怖れ」という大波にのまれそうになります。

そんなときは、目のまえの問題をどのように解決するべきか・・・ と判断、分析、対処にアマタを忙しくして、考えることに疲れはててしまったりしますが・・・ これは、じつはエゴの思うツボ。

問題を解決しようと問題に集中してしまうことが、まんまと苦しみを深める方向に向かっているとは、そしてエゴのワナだとは、ついぞ気がつくことができません。

「怖れ」を感じてたら、誰でもその「怖れ」の原因(出来事)をどうにかしようとします。それこそが問題の解決法だと。

しかし、ほんとうは「起こっている出来事」が原因で「怖れ」を感じているわけではない、ということになかなか気がつけません。

「怖れ」ゆえに、これらをなんとかしなくては!と焚きつけられていますが、これはエゴがしかけている巧妙なワナなのです。

コワイからそれらをなんとかする・・・ 出来事をどうにかするのにやっきになる ・・・すると、肝心の「怖れ」という感情がないがしろにされてしまいます。「怖れ」そのものに対峙することがないのです。そのかわりに、怖れの原因のように見えている偽の原因(出来事)をいじくりまわすことになります。

本当は、「そこで起きている出来事」と「感情(怖れ)」は、連動しているものではない、つまり関係がない、ということを誰も教えてくれません。

こんなふうに考えてみてください。

ある映画を観ているときに感じる感情は、ひとりひとりまったく違います。同じ映画を観たからといって、全員が同じ気持ちになるわけではありません。

先日、三人で「ラ・ラ・ランド」を観に行ったという友人が、「他の二人が涙している理由がさっぱりわからなかった」と話してくれました。

同じ映画を観たからといって、全員が同じところで同じ感情を感じるわけではありません。そこに映しだされていることに、自分の過去の感情が反応しただけなのです。

だから、何かを見て涙するときには、じつは自分のなかにある感情をそこに重ねあわせて涙しています。映画によってそのように感じているのではなく、映画はたんにその秘められた感情を刺激し、引っぱり出す何かであっただけなのです。

それと同様に、目のまえで起きている出来事も、じつは自分のなかで過去に抑圧した「感情を刺激する何か」なわけです。

だから、同じことが起こっても、笑ってすませる人もいれば、立ち直れないほど傷つく人もいるわけです。

エゴは、その目のまえの出来事こそが原因で「怖れ」を感じるんだ!と言いはります。そして、それこそを解決するためにあれこれ奔走することに向かわせます。

そうすると、「怖れ」はそのまま温存されて、またすぐに顔を出してくるのですが、そのときにはまた目のまえにある別なことを「怖れ」の原因だと思いこませ、今度はそれをどうにかしようと一生懸命になります。

こんなふうにして、「怖れ」の感覚はずっと大切にされることで、同時に問題もつくられつづけます。

このからくりがわかってから、わたしは「怖れ」を感じるたびに「逃がすものか!」とばかりに正面から感じることにしました。

そのときわたしが感じていたのは「なんかモヤモヤ」という程度の感情だったのですが、時間があったので湯船につかりながらそのモヤモヤにじっとフォーカスして感じつづけていました。

感じるときには、なるべく身体の感覚に敏感になってみます。手がびりびりとか、胸がどきどきとか、アタマががんがんとか、胃がどくどくとか・・・。そのフォーカスがあいはじめるや、だんだん両手がびりびりしはじめて、それが両足に広がって、そのうち全身がばりんばりん。あなたは、電気ナマズですか?!(笑)というぐらいすごいエネルギーです。

ひゃ〜!なんかモヤモヤぐらいの小さな感情の下に、こんな大きなエネルギーの塊が隠されていたなんて ・・・。ほんとうにしびれすぎて湯船から一歩も動けないような状態で、でもせっかく出てきたこの感情を感じないなんてもったいないという思いで、おそらく20分以上びりびりとじっくり感じつづけていたと思います。

そのあとお風呂から出たあとも、ずっと手のひらと足がじんじんしている感じは残っていましたが、なんか視野がすっきりとしたような、たしかにかなり大きなお荷物がなくなった気がしました。

そのとき感じたのは、わたしに限らずみんな、どれほどの大きなエネルギーを抑圧して、ないふりをして生きているのだろうということ。

その抑圧して、出てこないようにして、感じないようにして生きることこそ、ものすごいエネルギーを浪費しています。自分のもつ膨大な自由なエネルギーを、隠すことと、押さえることにつぎこまれてしまいます。

そしてその感じられていない感情の抑圧こそが、怖れや罪悪感、自己嫌悪、無価値観となって、それぞれの生きづらさにつながるのだな〜と感じます。

その後おもしろいことに、今までだったら「怖れ」を感じそうな状況に出会っても、それらが「たんなる対処すべき出来事」となって、必要以上に自分をおびやかすことがなくなったということ。

なるほど〜。怖れがなくなると、ただするべきことをするだけなんだな〜、わざわざ問題にならなくなるのだな〜と気がつきました。

そして、「怖れ」がなければ、ものごとはそうであるようにただ出来事として流れていくのだとわかりました。

先日のブログでも「感じること」について書いたばかりですが(「今感じていることに気づいていますか?」)、そこで感じている「感情」をただ感情として感じてあげることで、出来事とというのはニュートラルなものになっていくようです。

エゴは「怖れ」をつかって、つい出来事のほうにフォーカスさせようとしますが、それをしてしまうと解決されないままの感情がほかの出来事とドッキングしてまた別の問題がつくりだされます。

エゴはじつは「怖れ」そのものなのです。だから、感じられてしまったら、消滅してしまうので困るのですね。

だから、「怖れ」に正面から向かっていくことは、エゴのワナに翻弄されることなく、エゴそのものを消滅させる方法なのです。

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング )