日曜日, 6月 18 2017

日曜日, 6月 18 2017

気づきの日記「人生を紡ぐエネルギーを節約する」

私たちは、よくよく「あるがまま」を受け入れるのが苦手なんだな〜と感じます。あるがままのパートナー(恋人、家族、友人・・・)、あるがままに起きてくる出来事・・・。

「あるがまま」ですべては完璧なのです というとき、それは私たち好みの「完璧さ」ではありません。ここを勘違いすると、いつまでたっても完璧さは見えてこないのです。

「完璧だ」というのは、あるがままには「それ以上」も「それ以下」もないからそれで完璧だ、それが宇宙の摂理だ ということで、私好みの私が夢見ている完璧さとは関係がないのです。

私たちが誰かにイライラするとき、失望するとき、文句を言いたくなるとき ・・・ まるで自分こそはまっとうなことをしていて、非の打ちどころがなく、それゆえ相手が間違っている、だからこんな気持ちになるのだと信じています。

そうです!いつだって、悪いのは相手なのです。他にはいません。

私たちの思考は、必死になって自己防衛や自己正当化を試みます。

じつはそのとき自分がしているのは、「あなたは私の思ったとおりの人でいるべきだ」「そうでないあなたは、どこかがおかしい」と主張しているにすぎません。

恋愛やパートナーとの関係についてのセッションをするとき、きまって問題の原因は「相手が間違ったことをしていて、だから私は不幸なんです」ということ。

でも、本当に相手は間違ったことをしているのでしょうか? それとも、たった今その人はそういう人であり、「あるがままの自分」として生きているだけなのでしょうか?

答えは後者、人はいつだってそのときの「あるがまま」で生きているだけ なのです。

問題は、それを見ている自分が「お気にめすか」「めさないか」という問題。

その人は、「その人」に他ならないのです。たとえ、その状態を私が気に入ろうが気に入るまいが。

つまり、私たちは出会う人たちに対して「私の理想の恋人(パートナー、友人、母、父、上司、部下、こども ・・・)でありなさい」と無言のうちに強要し、そうなるように全力で圧力をかけはじめます。言葉どおりプレッシャーをかける、あるいはひきこもる、言葉で指示する、態度で示す・・・。

そう思うと、私たちは目のまえのことを自分好みに変えることに、自分のエネルギーのすべてを全力で注いでいるようです。

とくにその関係に「恋愛」というレッテルがはられているだけで、この症状がひどくなります。

なぜなら、みんなテレビドラマや小説、映画に感化されて、「恋愛」とはこういうものだよね、こうしてもらわなくっちゃ愛している証拠にならないよね、恋愛関係ってこういうことが起こるものだよね、という様々なルールがありすぎるから。

恋愛だって、結局はひとつの人間関係。そこで大切なのは、自分の理想の恋人像を相手におしつけないこと。日々出会う、自分にとってさぼど重要でない人をあえて「変えよう」としないのと同様に、その相手をそのままにしておいてあげること。

もし、文句があるのだったら、おそらく自分のなかに「理想の恋人とは〜である」という、実際の相手とは無縁のたくさんのルールがあるのだと思います。

でも、目のまえの相手は私のルールとは関係ないところで生きているのす。そのルールの存在すら知りません。知る必要はありません。

人だけではなくって、日々目のまえに起きてくる出来事もそう。

イライラしているときには、「これはこう進むはず」という自分なりのストーリーがあるのです。

でも残念ながら、人生はそんな意図とは関係なく、勝手に紡がれてゆくのです。

もしも、私たちが無意識に行っている人やものごとに対する「抵抗(変えようとすること)」をすべてやめたら、すべてはさぞスムーズに、なるようになることでしょう。そして、ありあまるパワーが文字どおりありあまっていることに気づくでしょう。そうしたら、人生はどのように見え、どのように感じるのでしょうね?

自分が日々の生活のなかで「文句」が出ているところ(ほとんど無意識のうちの文句ですが)に気づいてみる、そしてものごとも人も、今あるものが「あるがまま」であると認めて、そのままであるように手放してあげる。

それが難しく感じるときには、「なぜ?」あるがままでいてはいけないのかを探求してみると、おもしろいことに気づくかもしれません。

自分の正しく節約されたパワーが、どんなふうに人生を紡いでくれるのか ・・・ 見守ってみるのもおもしろいかもしれません。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

17-06-18 人生を紡ぐエネルギーを節約する

私たちは、よくよく「あるがまま」を受け入れるのが苦手なんだな〜と感じます。あるがままのパートナー(恋人、家族、友人・・・)、あるがままに起きてくる出来事・・・。

「あるがまま」ですべては完璧なのです というとき、それは私たち好みの「完璧さ」ではありません。ここを勘違いすると、いつまでたっても完璧さは見えてこないのです。

「完璧だ」というのは、あるがままには「それ以上」も「それ以下」もないからそれで完璧だ、それが宇宙の摂理だ ということで、私好みの私が夢見ている完璧さとは関係がないのです。

私たちが誰かにイライラするとき、失望するとき、文句を言いたくなるとき ・・・ まるで自分こそはまっとうなことをしていて、非の打ちどころがなく、それゆえ相手が間違っている、だからこんな気持ちになるのだと信じています。

そうです!いつだって、悪いのは相手なのです。他にはいません。

私たちの思考は、必死になって自己防衛や自己正当化を試みます。

じつはそのとき自分がしているのは、「あなたは私の思ったとおりの人でいるべきだ」「そうでないあなたは、どこかがおかしい」と主張しているにすぎません。

恋愛やパートナーとの関係についてのセッションをするとき、きまって問題の原因は「相手が間違ったことをしていて、だから私は不幸なんです」ということ。

でも、本当に相手は間違ったことをしているのでしょうか? それとも、たった今その人はそういう人であり、「あるがままの自分」として生きているだけなのでしょうか?

答えは後者、人はいつだってそのときの「あるがまま」で生きているだけ なのです。

問題は、それを見ている自分が「お気にめすか」「めさないか」という問題。

その人は、「その人」に他ならないのです。たとえ、その状態を私が気に入ろうが気に入るまいが。

つまり、私たちは出会う人たちに対して「私の理想の恋人(パートナー、友人、母、父、上司、部下、こども ・・・)でありなさい」と無言のうちに強要し、そうなるように全力で圧力をかけはじめます。言葉どおりプレッシャーをかける、あるいはひきこもる、言葉で指示する、態度で示す・・・。

そう思うと、私たちは目のまえのことを自分好みに変えることに、自分のエネルギーのすべてを全力で注いでいるようです。

とくにその関係に「恋愛」というレッテルがはられているだけで、この症状がひどくなります。

なぜなら、みんなテレビドラマや小説、映画に感化されて、「恋愛」とはこういうものだよね、こうしてもらわなくっちゃ愛している証拠にならないよね、恋愛関係ってこういうことが起こるものだよね、という様々なルールがありすぎるから。

恋愛だって、結局はひとつの人間関係。そこで大切なのは、自分の理想の恋人像を相手におしつけないこと。日々出会う、自分にとってさぼど重要でない人をあえて「変えよう」としないのと同様に、その相手をそのままにしておいてあげること。

もし、文句があるのだったら、おそらく自分のなかに「理想の恋人とは〜である」という、実際の相手とは無縁のたくさんのルールがあるのだと思います。

でも、目のまえの相手は私のルールとは関係ないところで生きているのす。そのルールの存在すら知りません。知る必要はありません。

人だけではなくって、日々目のまえに起きてくる出来事もそう。

イライラしているときには、「これはこう進むはず」という自分なりのストーリーがあるのです。

でも残念ながら、人生はそんな意図とは関係なく、勝手に紡がれてゆくのです。

もしも、私たちが無意識に行っている人やものごとに対する「抵抗(変えようとすること)」をすべてやめたら、すべてはさぞスムーズに、なるようになることでしょう。そして、ありあまるパワーが文字どおりありあまっていることに気づくでしょう。そうしたら、人生はどのように見え、どのように感じるのでしょうね?

自分が日々の生活のなかで「文句」が出ているところ(ほとんど無意識のうちの文句ですが)に気づいてみる、そしてものごとも人も、今あるものが「あるがまま」であると認めて、そのままであるように手放してあげる。

それが難しく感じるときには、「なぜ?」あるがままでいてはいけないのかを探求してみると、おもしろいことに気づくかもしれません。

自分の正しく節約されたパワーが、どんなふうに人生を紡いでくれるのか ・・・ 見守ってみるのもおもしろいかもしれません。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング