土曜日, 11月 18 2017

土曜日, 11月 18 2017

気づきの日記「頑張っているときに、大切なことって?」

演技の道で頑張っている ○○さんへ ・・・
そして、頑張ってもむくわれないように感じているあなたへ ・・・

早くから演じる道に入られて、ここまでの道のりはよいときもあったかと思えば苦しみのときもあり、本当に山と谷の連続でしたね。ふつうの世界では考えられないような、ダメだしや厳しい批判の数々を体験されたことでしょう。

それでも、たった今、○○さんがその道にいらっしゃるということこそ、何も間違ってはいないということなのです。なぜなら、その道にいらっしゃるからです。私たちはいっときも、間違ったところにいることはできないのです。

演じるたびに「それじゃダメだ」と言われつづけて、「もっと違う自分になりたい! なろう! 」と努力されてきたということですが ・・・ はたして、そのダメだしされつづけてきた自分とは、「ほんとうの自分」だったのでしょうか?

すでにほんとうの自分ではなかったからこそ、ダメだしをされたのではないでしょうか? もしそうであるなら、○○さんが傷ついていらっしゃるような自己否定をされたわけではないということになります。自分でも気づかないうちにニセモノになっていて、ただニセモノを見破られただけだったのです。

私たちは例外なくみんな、「ほんとうの自分」ととっくにサヨナラしています。

幼い頃の親との関係で、あるいは幼稚園などに通いはじめて社会化される頃、他の人との関係にさらされるなかで、摩擦や葛藤を体験します。個人として存在するうえで避けられないことなのです。

そのような体験から、全体を把握する目をもたないこどもは、「自分さえ変わればコトは丸くおさまる」とばかりに、容易に本来の自分を封印して、その家庭や環境で生きのびやすいニセモノの自分を表現しはじめます。つまり、愛と安全をえるために、やすやすと自分の魂を売って違うものになってしまうのです。

例えば母親が短気なため、あるがままの自分で存在していると攻撃されてしまうと感じたら、「長いものには巻かれろ!」方式で、聞き分けのよい従順なヨイ子を装うことで安全を確保します。しかし、本来のその子は奔放で独創的で生き生きと自由な、誰にもない自分独自の贈りものをもって生まれたというのに・・・。こどもは場の空気を読むことができないがために、どこででも自分の贈りものであるその個性を全開にしてしまい、それによって厳しく怒られたり、体罰されたりすることが起こってしまい、その子は二度とほんとうの自分を表現しないとこころに決めてしまうのです。・・・ が、そんなことを決めたことすら思いだされることはありません(セラピー以外では)。

だから、○○さんに必要なのは、監督や指導者の好みにあわせて自分を変えようとすることよりも、本来の自分、自分自身のハートとしっかりとつながって、自分がどんな贈りものをもって生まれてきているのかを思いだすことの方が大切なのです。

○○さんの住む演じる世界では、どうしても自分を「特別」にすること、「スペシャルに磨きあげること」が成功につながると思いこまれています。

しかしこの世界というものは、じつはひとつの全体として存在し機能しています。全体で調和がとれているのです。そのなかで、ひとり「特別」になろうとすることは、全体性の完全な流れから自分だけを切り離してしまうことであり、本来あるべき完全な状態とは別のものにしてしまうのです。つまり、調和と完全さが失われてしまいます。

この調和を保っている流れのなかで「わたしこそがスペシャルになります」といってしまうとき、「わたし」以外はすべてスペシャルではないのだ! と宣言したことになり、「わたし」以外を敵にまわしてしまいます。その結果、誰からも切り離されて孤軍奮闘するということになってしまうのです。

だから、「人より抜きん出よう」として人に戦いを挑むよりも、もとからそこにある「ほんとうの自分」に戻ることで、全体性のなかでの自分のオリジナリティを手にすることができます。すでにそこにある自分の宝ものを発見して、それを完璧な方法で「宇宙に役立ててもらう」ことができるのです。

今の○○さんのお話しをうかがっていると、「監督や指導者の眼鏡にかなう自分にならなければ・・・」「多くの人から望まれる自分にならなければ・・・」という理由から、あらゆることの判断基準が外側の「ひとの目」や「ひとの評価」におかれている気がします。しかしそうなってしまうと、74億人が望む74億とおりの自分バージョンが必要になります(スーパーカメレオンになってもそれは叶わないでしょう)。

そもそもなぜ人の目が気になるのか ・・・ 、それは○○さんも気づかれていたように「愛がほしい」からです。誰でも、「愛がほしい」のです。「愛がほしい(褒めてほしい、認めてほしい、尊敬してほしい、大切にしてほしい、必要としてほしい・・・)」からこそ、みんな必死で頑張ります。これが足りている人はめったにいません。だから、愛されることがすべての行動の動機につながっています。

そして、 ○○さんが今、演技の道でほんとうに手にしたいと思っているのは、じつはこの「愛」 =「注目されること」なのかもしれません。だから、この道で否定されることは、「愛される価値がない」という言葉に聞こえるのかもしれません。

しかしいくら頑張っても、「愛」は自分の外では見つけられないし、手にすることもできないのです。だから、みんな永遠に「愛」を求めて放浪することになります。外に求めれば求めるほど、それを手にするために自分を犠牲にすることになります。

犠牲とはガマンであり、「愛」をえるために犠牲をすると、「愛」どころではなく怒りや憎しみを感じるようになります。

「愛」を欲しがる、「愛」が足りていない、という感覚は、じつは思い違い・錯覚です。本当に足りていないのではなくって、自分のなかにある「愛」とのつながりが切れてしまっているのです。そのために、外に探しに行かなくては ・・・ と勘違いしてしまったのです。

なので、「愛」は外側のどこにも見つけることができない、ということを理解して、自分の内側に戻ってそれを発見したとき、見える世界が変わりはじめます。また体験する出来事も変わってくるのです。

なぜなら、いつだって私たちが体験するのは、自分が思ってるとおりのことだからです。内側の宝ものを発見することで、外側にもその同じ宝ものが映しだされるようになるのです。

つながりが切れていた「ほんとうの自分」と再びつながり直すこと、そして「愛が足りていないんだ」という思い違いを正してあげること ・・・ それが、自分本来の生きるべき道筋に自分をのせてあげるうえで大切なことなのかもしれませんね♡

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

17-11-18 頑張っているときに、大切なことって?

演技の道で頑張っている ○○さんへ ・・・
そして、頑張ってもむくわれないように感じているあなたへ ・・・

早くから演じる道に入られて、ここまでの道のりはよいときもあったかと思えば苦しみのときもあり、本当に山と谷の連続でしたね。ふつうの世界では考えられないような、ダメだしや厳しい批判の数々を体験されたことでしょう。

それでも、たった今、○○さんがその道にいらっしゃるということこそ、何も間違ってはいないということなのです。なぜなら、その道にいらっしゃるからです。私たちはいっときも、間違ったところにいることはできないのです。

演じるたびに「それじゃダメだ」と言われつづけて、「もっと違う自分になりたい! なろう! 」と努力されてきたということですが ・・・ はたして、そのダメだしされつづけてきた自分とは、「ほんとうの自分」だったのでしょうか?

すでにほんとうの自分ではなかったからこそ、ダメだしをされたのではないでしょうか? もしそうであるなら、○○さんが傷ついていらっしゃるような自己否定をされたわけではないということになります。自分でも気づかないうちにニセモノになっていて、ただニセモノを見破られただけだったのです。

私たちは例外なくみんな、「ほんとうの自分」ととっくにサヨナラしています。

幼い頃の親との関係で、あるいは幼稚園などに通いはじめて社会化される頃、他の人との関係にさらされるなかで、摩擦や葛藤を体験します。個人として存在するうえで避けられないことなのです。

そのような体験から、全体を把握する目をもたないこどもは、「自分さえ変わればコトは丸くおさまる」とばかりに、容易に本来の自分を封印して、その家庭や環境で生きのびやすいニセモノの自分を表現しはじめます。つまり、愛と安全をえるために、やすやすと自分の魂を売って違うものになってしまうのです。

例えば母親が短気なため、あるがままの自分で存在していると攻撃されてしまうと感じたら、「長いものには巻かれろ!」方式で、聞き分けのよい従順なヨイ子を装うことで安全を確保します。しかし、本来のその子は奔放で独創的で生き生きと自由な、誰にもない自分独自の贈りものをもって生まれたというのに・・・。こどもは場の空気を読むことができないがために、どこででも自分の贈りものであるその個性を全開にしてしまい、それによって厳しく怒られたり、体罰されたりすることが起こってしまい、その子は二度とほんとうの自分を表現しないとこころに決めてしまうのです。・・・ が、そんなことを決めたことすら思いだされることはありません(セラピー以外では)。

だから、○○さんに必要なのは、監督や指導者の好みにあわせて自分を変えようとすることよりも、本来の自分、自分自身のハートとしっかりとつながって、自分がどんな贈りものをもって生まれてきているのかを思いだすことの方が大切なのです。

○○さんの住む演じる世界では、どうしても自分を「特別」にすること、「スペシャルに磨きあげること」が成功につながると思いこまれています。

しかしこの世界というものは、じつはひとつの全体として存在し機能しています。全体で調和がとれているのです。そのなかで、ひとり「特別」になろうとすることは、全体性の完全な流れから自分だけを切り離してしまうことであり、本来あるべき完全な状態とは別のものにしてしまうのです。つまり、調和と完全さが失われてしまいます。

この調和を保っている流れのなかで「わたしこそがスペシャルになります」といってしまうとき、「わたし」以外はすべてスペシャルではないのだ! と宣言したことになり、「わたし」以外を敵にまわしてしまいます。その結果、誰からも切り離されて孤軍奮闘するということになってしまうのです。

だから、「人より抜きん出よう」として人に戦いを挑むよりも、もとからそこにある「ほんとうの自分」に戻ることで、全体性のなかでの自分のオリジナリティを手にすることができます。すでにそこにある自分の宝ものを発見して、それを完璧な方法で「宇宙に役立ててもらう」ことができるのです。

今の○○さんのお話しをうかがっていると、「監督や指導者の眼鏡にかなう自分にならなければ・・・」「多くの人から望まれる自分にならなければ・・・」という理由から、あらゆることの判断基準が外側の「ひとの目」や「ひとの評価」におかれている気がします。しかしそうなってしまうと、74億人が望む74億とおりの自分バージョンが必要になります(スーパーカメレオンになってもそれは叶わないでしょう)。

そもそもなぜ人の目が気になるのか ・・・ 、それは○○さんも気づかれていたように「愛がほしい」からです。誰でも、「愛がほしい」のです。「愛がほしい(褒めてほしい、認めてほしい、尊敬してほしい、大切にしてほしい、必要としてほしい・・・)」からこそ、みんな必死で頑張ります。これが足りている人はめったにいません。だから、愛されることがすべての行動の動機につながっています。

そして、 ○○さんが今、演技の道でほんとうに手にしたいと思っているのは、じつはこの「愛」 =「注目されること」なのかもしれません。だから、この道で否定されることは、「愛される価値がない」という言葉に聞こえるのかもしれません。

しかしいくら頑張っても、「愛」は自分の外では見つけられないし、手にすることもできないのです。だから、みんな永遠に「愛」を求めて放浪することになります。外に求めれば求めるほど、それを手にするために自分を犠牲にすることになります。

犠牲とはガマンであり、「愛」をえるために犠牲をすると、「愛」どころではなく怒りや憎しみを感じるようになります。

「愛」を欲しがる、「愛」が足りていない、という感覚は、じつは思い違い・錯覚です。本当に足りていないのではなくって、自分のなかにある「愛」とのつながりが切れてしまっているのです。そのために、外に探しに行かなくては ・・・ と勘違いしてしまったのです。

なので、「愛」は外側のどこにも見つけることができない、ということを理解して、自分の内側に戻ってそれを発見したとき、見える世界が変わりはじめます。また体験する出来事も変わってくるのです。

なぜなら、いつだって私たちが体験するのは、自分が思ってるとおりのことだからです。内側の宝ものを発見することで、外側にもその同じ宝ものが映しだされるようになるのです。

つながりが切れていた「ほんとうの自分」と再びつながり直すこと、そして「愛が足りていないんだ」という思い違いを正してあげること ・・・ それが、自分本来の生きるべき道筋に自分をのせてあげるうえで大切なことなのかもしれませんね♡

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング