金曜日, 3月 30 2018

金曜日, 3月 30 2018

気づきの日記「究極の受容 “そだね〜” パワー」

私たちが問題を感知するとき、それは感情が反応しているときです(この状況は緊張する!など)。その感情の反応は、自分が信じていることに基づいて起こります(私はものごとに正しく対処できないと信じている、だからコワイ、緊張する)。

しかし私たちは、その思いの結果としてあらわれた世界のことにばかりに気をとられているのです(なぜこれはこうなんだ!この状況をどうにかしよう)。

よくよく自分のこころを観察してみると、一日じゅう世界に対する「抵抗」や「不満」のセリフがくりかえされていることに気づくかもしれません。「なぜこうなんだ・・・」「あの人がこうしていなければ・・・」「私の思うようになっていさえすれば・・・」云々。

エゴは、抵抗するか、攻撃するか、不平不満をいうか、引きこもるか ・・・ これ以外にお役目がないのです。アタマのなかに不平不満がなくなったらエゴは消え去ってしまう運命にあるため、エゴは存在をかけて抵抗し、不平不満をいいつづけるわけです。

毎瞬、毎瞬、抵抗と不満というエゴのセリフに翻弄されるあまり、「そこに問題があるから、自分が困っている」ように感じさせられてしまいます。

そしてその結果、わたしたちはあたかも問題が「存在するかのように」感じてしまうわけです。

問題が「存在するかのように」感じる? ってことは、じつは「ない」?

そうなんです。

エゴが黙るということは、「これが問題だ!」「あれが気にくわない」というラベリングがなくなるため、ラベリングがなければ問題さえ生まれることができなくなってしまいます。

私たちはつねに「こころが決めたものを目にする」ので、「これが問題だ」という決めつけがなくなることで、自ずと知覚するものが変化します。そこには、もとから存在していた完全な秩序が見えるようになり、自分にとって問題のない安全な世界を見ることになります。

安全な世界は、外からやってくるのではなく、このように内側からやってくるものなのです(安全なこころこそ、身の安全なのです)。

そのためには、抵抗せず、不平不満をいわないで、ものごとを「あるがままに受け入れる」ことが大切です。それが自分の目にする世界に平和を与えることになり、そこから自分も平和を受けとることになるのです。

でも私たちのイメージでは、「あるがままを受け入れる」ってとても非力なイメージがあるようです。「何もしないってどうなの? 」と。なんせ、力で何かを成しとげてなんぼ・・・ の世界で育ってきたのですから。いわば、「抵抗」万歳、「不平不満」最強だったわけです。

しかし、「何かする必要がある」、つまり身構える必要があると感じるのは、そもそも「それは危険だ」と感じているからです。その「危険だ」という思いこそが、じつは凶器そのもの。自分を危険な状態においてしまう原因なのです。

そう考えると、やはり「あるがまま」で力を抜くことこそ、「向かうところ敵なし!」「平和のなかにいる!」というこころのあらわれなわけです。

「あるがままを受け入れる」ということと、その静かなる「敵なし」パワーを描いたおもしろい映画があります(「チャンス」1979年)。

お金もちが亡くなりました。すると、そこに住み込んでいた庭師のチャンスは居場所を失います。

彼は街に出るのですが、じつは生まれてこのかた住みこみで庭師をし、あとはテレビばかりを観るという生活をしていたので、初めて外の世界にふれたのです。そんな彼は、目のまえで困ったことが起こるとリコモンで画面を変えようとするありさま。テレビ画面と現実の境がないのです。

しかし、チャンスの人生は世界に放り出された日から、あれよあれよというまに勝手に展開してゆきます。彼自身はまったく何もせず、ただ「見て」「受け入れて」いるだけなのに ・・・。

交通事故にあい、事故にかかわった富豪の家で手当をうけるうち、そこの夫婦にたいそう気に入られ、大統領とも友達になったり、そのうち余命いくばくもない富豪に彼の妻のその後も頼まれ、さらに次期大統領候補として追いかけまわされ・・・。しかし、人生に何が起ころうと彼はどこふく風です。

彼の静けさ(テレビを観続けることによって身についた完全なる受容)は、寛大さ、賢さとして人々の目に映り、賞賛を集めます。スマートな紳士というひとかどの人物像ができあがってゆきます。

テレビで養ったチャンスの受容力はすごいです。どんなことにも「YES」しかありません。「だって」とか「でも」など一切ありません。今はやりの「そだね〜」がすべてです。何がきても「そだね〜」です。

だから、プロのカウンセラーも真っ青の受容のお手本のような態度です。相手のなげかけには、すべてイエス「そだね〜」で答え、また共感もばっちり。たとえば女性が「悲しいの」というと、チャンスは「ああ ・・・ 悲しいね」と答え、女性も理解してもらった喜びで「やさしいのね」と彼のことが大好きになります。

彼の批判せず、闘わず、ひたすら受容する態度は、まわりからは穏やかさ、寛容さ、スマートさとして評され、あまたの女性から熱いまなざしを向けられ、実業家からは信頼をよせられ、マスコミに追っかけまわされ ・・・ しまいには、次期大統領候補として注目されるまでに。

つまり、本人はただ存在して「受容すること」をしているだけなのに、あれよ!あれよ!と人生はドラマチックに展開してゆくのです。

チャンスは、究極の受容の形です(このストーリーでは、かなりコメディチックに描かれていますが)。

批判的にならない、不平不満をいわない、「だって」「でも」を口にしない ・・・ というだけでも、自分の目にする世界に平和をもたらして大きく変化させることができます。

平和な心、おだやかな心こそが外側に映しだされて、自分に平和な世界を見せてくれる唯一の原因だからです。

世界を自分の都合のいいようにいじりまわす努力をするよりも、ただ外と闘わない(=外は安全)という態度こそが大切なのです。闘わないからこそ、受容する。受容するからこそ、ここは安全。そして、安全の証明を目にすることができる、というわけです。

真のやすらぎのある世界には、摩擦となるものがありません。チャンスは、人や世界に完全にこころを開いているので摩擦がまったくないのです。

「受容」は「この世界は安全だ」という信念のあらわれで、それこそが安全をみるために大切なことなのですね。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

18-03-30 究極の受容「そだね〜」パワー

私たちが問題を感知するとき、それは感情が反応しているときです(この状況は緊張する!など)。その感情の反応は、自分が信じていることに基づいて起こります(私はものごとに正しく対処できないと信じている、だからコワイ、緊張する)。

しかし私たちは、その思いの結果としてあらわれた世界のことにばかりに気をとられているのです(なぜこれはこうなんだ!この状況をどうにかしよう)。

よくよく自分のこころを観察してみると、一日じゅう世界に対する「抵抗」や「不満」のセリフがくりかえされていることに気づくかもしれません。「なぜこうなんだ・・・」「あの人がこうしていなければ・・・」「私の思うようになっていさえすれば・・・」云々。

エゴは、抵抗するか、攻撃するか、不平不満をいうか、引きこもるか ・・・ これ以外にお役目がないのです。アタマのなかに不平不満がなくなったらエゴは消え去ってしまう運命にあるため、エゴは存在をかけて抵抗し、不平不満をいいつづけるわけです。

毎瞬、毎瞬、抵抗と不満というエゴのセリフに翻弄されるあまり、「そこに問題があるから、自分が困っている」ように感じさせられてしまいます。

そしてその結果、わたしたちはあたかも問題が「存在するかのように」感じてしまうわけです。

問題が「存在するかのように」感じる? ってことは、じつは「ない」?

そうなんです。

エゴが黙るということは、「これが問題だ!」「あれが気にくわない」というラベリングがなくなるため、ラベリングがなければ問題さえ生まれることができなくなってしまいます。

私たちはつねに「こころが決めたものを目にする」ので、「これが問題だ」という決めつけがなくなることで、自ずと知覚するものが変化します。そこには、もとから存在していた完全な秩序が見えるようになり、自分にとって問題のない安全な世界を見ることになります。

安全な世界は、外からやってくるのではなく、このように内側からやってくるものなのです(安全なこころこそ、身の安全なのです)。

そのためには、抵抗せず、不平不満をいわないで、ものごとを「あるがままに受け入れる」ことが大切です。それが自分の目にする世界に平和を与えることになり、そこから自分も平和を受けとることになるのです。

でも私たちのイメージでは、「あるがままを受け入れる」ってとても非力なイメージがあるようです。「何もしないってどうなの? 」と。なんせ、力で何かを成しとげてなんぼ・・・ の世界で育ってきたのですから。いわば、「抵抗」万歳、「不平不満」最強だったわけです。

しかし、「何かする必要がある」、つまり身構える必要があると感じるのは、そもそも「それは危険だ」と感じているからです。その「危険だ」という思いこそが、じつは凶器そのもの。自分を危険な状態においてしまう原因なのです。

そう考えると、やはり「あるがまま」で力を抜くことこそ、「向かうところ敵なし!」「平和のなかにいる!」というこころのあらわれなわけです。

「あるがままを受け入れる」ということと、その静かなる「敵なし」パワーを描いたおもしろい映画があります(「チャンス」1979年)。

お金もちが亡くなりました。すると、そこに住み込んでいた庭師のチャンスは居場所を失います。

彼は街に出るのですが、じつは生まれてこのかた住みこみで庭師をし、あとはテレビばかりを観るという生活をしていたので、初めて外の世界にふれたのです。そんな彼は、目のまえで困ったことが起こるとリコモンで画面を変えようとするありさま。テレビ画面と現実の境がないのです。

しかし、チャンスの人生は世界に放り出された日から、あれよあれよというまに勝手に展開してゆきます。彼自身はまったく何もせず、ただ「見て」「受け入れて」いるだけなのに ・・・。

交通事故にあい、事故にかかわった富豪の家で手当をうけるうち、そこの夫婦にたいそう気に入られ、大統領とも友達になったり、そのうち余命いくばくもない富豪に彼の妻のその後も頼まれ、さらに次期大統領候補として追いかけまわされ・・・。しかし、人生に何が起ころうと彼はどこふく風です。

彼の静けさ(テレビを観続けることによって身についた完全なる受容)は、寛大さ、賢さとして人々の目に映り、賞賛を集めます。スマートな紳士というひとかどの人物像ができあがってゆきます。

テレビで養ったチャンスの受容力はすごいです。どんなことにも「YES」しかありません。「だって」とか「でも」など一切ありません。今はやりの「そだね〜」がすべてです。何がきても「そだね〜」です。

だから、プロのカウンセラーも真っ青の受容のお手本のような態度です。相手のなげかけには、すべてイエス「そだね〜」で答え、また共感もばっちり。たとえば女性が「悲しいの」というと、チャンスは「ああ ・・・ 悲しいね」と答え、女性も理解してもらった喜びで「やさしいのね」と彼のことが大好きになります。

彼の批判せず、闘わず、ひたすら受容する態度は、まわりからは穏やかさ、寛容さ、スマートさとして評され、あまたの女性から熱いまなざしを向けられ、実業家からは信頼をよせられ、マスコミに追っかけまわされ ・・・ しまいには、次期大統領候補として注目されるまでに。

つまり、本人はただ存在して「受容すること」をしているだけなのに、あれよ!あれよ!と人生はドラマチックに展開してゆくのです。

チャンスは、究極の受容の形です(このストーリーでは、かなりコメディチックに描かれていますが)。

批判的にならない、不平不満をいわない、「だって」「でも」を口にしない ・・・ というだけでも、自分の目にする世界に平和をもたらして大きく変化させることができます。

平和な心、おだやかな心こそが外側に映しだされて、自分に平和な世界を見せてくれる唯一の原因だからです。

世界を自分の都合のいいようにいじりまわす努力をするよりも、ただ外と闘わない(=外は安全)という態度こそが大切なのです。闘わないからこそ、受容する。受容するからこそ、ここは安全。そして、安全の証明を目にすることができる、というわけです。

真のやすらぎのある世界には、摩擦となるものがありません。チャンスは、人や世界に完全にこころを開いているので摩擦がまったくないのです。

「受容」は「この世界は安全だ」という信念のあらわれで、それこそが安全をみるために大切なことなのですね。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング