木曜日, 5月 31 2018

木曜日, 5月 31 2018

気づきの日記「マイケル スーダラに学ぶ」

お友だちから送られてきたオモシロ動画。



マイケルがスーダラ節を踊っちゃってます(笑)。イイ感じでシンクロしていますね〜。

「じつは、こっちがホンモノだったりして?」「パラレルワールドかも?!」

パラレルワールドか〜、たしかに ・・・ 。

私たちの見ている次元のバージョンではゾンビがぞろぞろ。マイケルまでもがゾンビで、怖れがいっぱいの「スリラー」版です。別次元に存在するバージョンは、みんなイ〜イ気分の酔っぱらいで、楽しくノーテンキにスーダラ節を踊っている平和な図となっています。

パラレルワールドでは、なんでもアリですからね。

私たちの知覚には、たしかにふたつのバージョンがあります。

ふたつのチャンネルのあいだで、つねに切り替えが可能なのです。

ひとつは、いつも見ているやり方。つまり、身体の目で見る見方。

もうひとつは「星の王子さま」がキツネに教えてもらった、こころの目で見る見方。

「こころの目で見ないとよく見えない。大切なことは、(身体の)目には見えないんだ」と。これはキツネだけの特許の見方ではありません。じつは真の知覚であり、ほんとうの自分が見る世界の見方のことを言っているのですね。

そして、それぞれの見方によって、まったく見える世界が変わってしまいます。「スリラー」と「スーダラ」ぐらい、まったくの別ものです!

片方は、何の秩序も存在せず混乱と怖れのみが存在し、もう一方は高い叡智が司る幸せな秩序だけが存在します。

見ているものが、まさに「スリラー」で怖れそのものだと思って構えていたのに、見方を変えたらじつは「スーダラ」でお気楽、ノーテンキな出来事だったのね(汗)・・・ というように。

制限をもった身体の目で見ると、制限しか見ることができません。何かが始まっては必ず終わりをむかえ、永遠につづくものなどなにもなく、制限ゆえに怖れにみちた画像。どんなに楽しく見えていようとも、必ずどこかにこっそりと怖れという毒を含んでいるわけです。

身体の目で見ているときには、一点だけをピックアップして切りとって見ています。たとえば、「あら、○ちゃん、お腹あたりが太ったんじゃない?」「まあ、そのシミ、前回会ったときにはなかったわよ」みたいな。○ちゃんを切りきざんでバラバラにして、「ここはヨシ」「こっちはダメ」というように、そのすべてに自分なりのダメだしをしています。ひとつだったものをバラバラにして等級をつけて自分なりの価値判断するので、全体としての意味が失われてしまいます。すでに、「○ちゃんがどういう存在なのか」まったくわからなくなってしまいます。それこそが怖れの原因です。こんな感じのことを、すべてに対してしています。

一方こころの目で見てみると、制限を越えてすべてをひとつとしてとらえます。○ちゃんに例えれば、○ちゃんのこころだけを見ています。そこには完全なものとしての意味が完全なものとして守られています。そして、葛藤も制限もないので、あるのは解放感、自由、お気らく、ノーテンキ、はればれ、すべてこれでよし!という感じ。

だから、同じものや出来事を見ていたとしても、どちらのチャンネルにチューニングしているかによって、似ていてもまったく非なるものや出来事となるわけです。

マイケルの「スリラー」か「スーダラ」かというように、まったく場面の意味あいが変わってしまいます。私たちの意味づけという制限がはずれたときには、どうやらノーテンキにしかなりようがないようです。

私たちは、このふたつのチャンネルを一瞬一瞬選んでいます。無意識的に。

それは、つねにふたつにひとつ。「怖れ」か「平和(愛)」かのふたつの選択しかなく、それも100% 怖れか、100パーセント 平和(愛)かのどちらかです。

「平和(愛)」にたったの 0,0001パーセントでも「怖れ」が混じってしまったら、それはもうアウト。それは「怖れ」になるのです。「平和(愛)」のなかに「怖れ」という概念は存在せず、「怖れ」の居場所はたったの 0,0001パーセントでさえもありえないのです。

なにか怖れが見える、敵意がみえる、孤独が見える、不安が見える、よからぬことが見える ・・・ というときには、もれなく制限のある身体の目で見ているサインであり、その結果として様々なかたちの怖れに出会うというわけです。

そもそも私たちは身体ではないので、身体なんていうまがいものの目をとおして見ると、存在すらしていいないまがいものに出会ってしまうのです。

私は一個の身体であると信じているとき ・・・ 他と分離しているので孤立はまぬがれず、孤立の怖れを感じているともれなく敵があらわれます。敵があらわれると、守るための闘いがはじまりまり、そのようなキケンを感じていると、「ここはキケンなところだ」という信念から、さらにキケンを目にするように自分に仕向け・・・(信じていることを証明してくれます)。怖れが増幅されます。

一方、ほんとうの自分であるこころの目にチューインングしているときには、ほんとうの自分の特権である平和、安らぎ、愛があります。すべてにいだかれて、自然な流れとともにあります。

こころには身体が感じているような分離の感覚がないので、守ることを必要としません。こころには限界がないので、すべてをすでにもっています。すべてであると知っているので対立を知らず、平和だけがあります。

平和、安らぎがあるので、さらに安らかさを証明するような出来事を見ることになります。そうすると、さらに平和と安らぎへの確信を深めます。ほんとうの自分の源は、平和、安らぎ、愛そものもなので、それを思い出すことができるのです。

身体の目で見たときにあったはずの怖れは、「あら〜、ヤダわ!ただの勘違いだったのね〜」と却下されるので、怖れは去ってしまいます。

こころの目にとどまっているときには、安心感があります。穏やかです。広がりがあります。だから、さらにその穏やかさがどこまでも広がってゆき、目にするものがすべて平和で穏やかになります。

これが本来の私たちの自然な状態です。ほんとうの自分の状態です。ほんとうは、自分が本来もっている穏やかさを見ているだけなのですが。

私たちは身体の目で見ることを見ることだと信じてきたので(つまり、目に見えないものは「存在しないもの」と決めてきたので)、こころの目を使うためには少し訓練が必要です。意識してチャンネルを変える必要があるのです。

身体の目で見て不都合(怖れ、不安、苦痛)を感じているときに、まずは立ち止まって、ちゃんと気づいて、それからこころの目にスウィッチしようというクセをつけることです。

じつは自分ひとりではスウィッチすることができないので、助けが必要です。

ほんとうの自分じゃないと気づいたら、ハイヤーセルフにさし出して、お願いしてしまいましょう。

「いま私はズレていてニセものの目で見ています。だからこそ、存在しないものが見えています。どうか、スピリットであるほんとうの自分に戻してください。そして、こころの目で見させてください。ほんとうのこと、真に存在するものを見せてください」と。これだけです!(簡単!)

一日に何度も、どんなプチな怖れでも、不安でも、地道に気づいてさし出してゆきます。見え方を変えてもらいます。

怖れが見えるときには、もれなくまがいものの自分になっています。身体だと思って、身体の目で見ています。しかし、私たちは制限いっぱいの「カラダ」などではなく、あくまでも自由そのものの「スピリット」です。身体というのは自分のこころのなかにあるイメージにすぎないのです。

身体の目には、身体の目にしか見えないものが見えてしまう! それこそが、怖れであり、苦しみであり、残酷さだったのです。

「カラダ」だと信じて、「カラダ」の目だけを頼りにしてしまったところに、すべての間違いがあります。

制限がかかって、苦しみが生まれ、まったく平和なほんとうの世界は見えなくなってしまったということ。まさに、ニセモノの目をとおして架空の世界を見てアセっているわけです。

この目をとおして見ていると、あらゆるものについて「スリラー」バージョンしか見えません。しかし、いったんこころの目にスイッチしてもらったら、どんなに悲惨に見えていることでも「スーダラ」バージョンに変化させることができて、あ〜 ・・・ なにもコワイものなんてなかったんだ〜(汗)、ということに気づきます。(だまし絵の別の見方が見えたときのような、「あ〜!なんだこういうこと」みたいなひらめきがあったりします。)

なにかを変えたいとき「スリラー」バージョンのなかで必死にも変えようともがいて努力するのは、いわばエネルギーのムダづかいなのです。

ただハイヤーセルフにお願いすることで、チャンネルをスイッチして別バージョンを見せてもらいましょう。(ただお願いするだけ、というシンプルさ!)

身体の目で見る世界では、すべては実るようで実りません。しかし、こころの目で見ることができる平和な「スーダラ」バージョンへと切り替えをお願いするだけで、余計な心配も策略も努力もいらなくなります。実らせることすら必要ないのです。高い叡智の秩序にしたがって、誰にとってもハッピーとなる結末が約束されているからです。

ただ、スイッチするために気づくこと。お願いすること。スーダラ節を踊るために必要なことはとてもシンプルです!

そして、自分がスーダラを踊っていることに気づくと、まわりの仲間もきっと一緒にスーダラを踊っていることでしょう♪

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

18-05-31 マイケル スーダラに学ぶ

お友だちから送られてきたオモシロ動画。



マイケルがスーダラ節を踊っちゃってます(笑)。イイ感じでシンクロしていますね〜。

「じつは、こっちがホンモノだったりして?」「パラレルワールドかも?!」

パラレルワールドか〜、たしかに ・・・ 。

私たちの見ている次元のバージョンではゾンビがぞろぞろ。マイケルまでもがゾンビで、怖れがいっぱいの「スリラー」版です。別次元に存在するバージョンは、みんなイ〜イ気分の酔っぱらいで、楽しくノーテンキにスーダラ節を踊っている平和な図となっています。

パラレルワールドでは、なんでもアリですからね。

私たちの知覚には、たしかにふたつのバージョンがあります。

ふたつのチャンネルのあいだで、つねに切り替えが可能なのです。

ひとつは、いつも見ているやり方。つまり、身体の目で見る見方。

もうひとつは「星の王子さま」がキツネに教えてもらった、こころの目で見る見方。

「こころの目で見ないとよく見えない。大切なことは、(身体の)目には見えないんだ」と。これはキツネだけの特許の見方ではありません。じつは真の知覚であり、ほんとうの自分が見る世界の見方のことを言っているのですね。

そして、それぞれの見方によって、まったく見える世界が変わってしまいます。「スリラー」と「スーダラ」ぐらい、まったくの別ものです!

片方は、何の秩序も存在せず混乱と怖れのみが存在し、もう一方は高い叡智が司る幸せな秩序だけが存在します。

見ているものが、まさに「スリラー」で怖れそのものだと思って構えていたのに、見方を変えたらじつは「スーダラ」でお気楽、ノーテンキな出来事だったのね(汗)・・・ というように。

制限をもった身体の目で見ると、制限しか見ることができません。何かが始まっては必ず終わりをむかえ、永遠につづくものなどなにもなく、制限ゆえに怖れにみちた画像。どんなに楽しく見えていようとも、必ずどこかにこっそりと怖れという毒を含んでいるわけです。

身体の目で見ているときには、一点だけをピックアップして切りとって見ています。たとえば、「あら、○ちゃん、お腹あたりが太ったんじゃない?」「まあ、そのシミ、前回会ったときにはなかったわよ」みたいな。○ちゃんを切りきざんでバラバラにして、「ここはヨシ」「こっちはダメ」というように、そのすべてに自分なりのダメだしをしています。ひとつだったものをバラバラにして等級をつけて自分なりの価値判断するので、全体としての意味が失われてしまいます。すでに、「○ちゃんがどういう存在なのか」まったくわからなくなってしまいます。それこそが怖れの原因です。こんな感じのことを、すべてに対してしています。

一方こころの目で見てみると、制限を越えてすべてをひとつとしてとらえます。○ちゃんに例えれば、○ちゃんのこころだけを見ています。そこには完全なものとしての意味が完全なものとして守られています。そして、葛藤も制限もないので、あるのは解放感、自由、お気らく、ノーテンキ、はればれ、すべてこれでよし!という感じ。

だから、同じものや出来事を見ていたとしても、どちらのチャンネルにチューニングしているかによって、似ていてもまったく非なるものや出来事となるわけです。

マイケルの「スリラー」か「スーダラ」かというように、まったく場面の意味あいが変わってしまいます。私たちの意味づけという制限がはずれたときには、どうやらノーテンキにしかなりようがないようです。

私たちは、このふたつのチャンネルを一瞬一瞬選んでいます。無意識的に。

それは、つねにふたつにひとつ。「怖れ」か「平和(愛)」かのふたつの選択しかなく、それも100% 怖れか、100パーセント 平和(愛)かのどちらかです。

「平和(愛)」にたったの 0,0001パーセントでも「怖れ」が混じってしまったら、それはもうアウト。それは「怖れ」になるのです。「平和(愛)」のなかに「怖れ」という概念は存在せず、「怖れ」の居場所はたったの 0,0001パーセントでさえもありえないのです。

なにか怖れが見える、敵意がみえる、孤独が見える、不安が見える、よからぬことが見える ・・・ というときには、もれなく制限のある身体の目で見ているサインであり、その結果として様々なかたちの怖れに出会うというわけです。

そもそも私たちは身体ではないので、身体なんていうまがいものの目をとおして見ると、存在すらしていいないまがいものに出会ってしまうのです。

私は一個の身体であると信じているとき ・・・ 他と分離しているので孤立はまぬがれず、孤立の怖れを感じているともれなく敵があらわれます。敵があらわれると、守るための闘いがはじまりまり、そのようなキケンを感じていると、「ここはキケンなところだ」という信念から、さらにキケンを目にするように自分に仕向け・・・(信じていることを証明してくれます)。怖れが増幅されます。

一方、ほんとうの自分であるこころの目にチューインングしているときには、ほんとうの自分の特権である平和、安らぎ、愛があります。すべてにいだかれて、自然な流れとともにあります。

こころには身体が感じているような分離の感覚がないので、守ることを必要としません。こころには限界がないので、すべてをすでにもっています。すべてであると知っているので対立を知らず、平和だけがあります。

平和、安らぎがあるので、さらに安らかさを証明するような出来事を見ることになります。そうすると、さらに平和と安らぎへの確信を深めます。ほんとうの自分の源は、平和、安らぎ、愛そものもなので、それを思い出すことができるのです。

身体の目で見たときにあったはずの怖れは、「あら〜、ヤダわ!ただの勘違いだったのね〜」と却下されるので、怖れは去ってしまいます。

こころの目にとどまっているときには、安心感があります。穏やかです。広がりがあります。だから、さらにその穏やかさがどこまでも広がってゆき、目にするものがすべて平和で穏やかになります。

これが本来の私たちの自然な状態です。ほんとうの自分の状態です。ほんとうは、自分が本来もっている穏やかさを見ているだけなのですが。

私たちは身体の目で見ることを見ることだと信じてきたので(つまり、目に見えないものは「存在しないもの」と決めてきたので)、こころの目を使うためには少し訓練が必要です。意識してチャンネルを変える必要があるのです。

身体の目で見て不都合(怖れ、不安、苦痛)を感じているときに、まずは立ち止まって、ちゃんと気づいて、それからこころの目にスウィッチしようというクセをつけることです。

じつは自分ひとりではスウィッチすることができないので、助けが必要です。

ほんとうの自分じゃないと気づいたら、ハイヤーセルフにさし出して、お願いしてしまいましょう。

「いま私はズレていてニセものの目で見ています。だからこそ、存在しないものが見えています。どうか、スピリットであるほんとうの自分に戻してください。そして、こころの目で見させてください。ほんとうのこと、真に存在するものを見せてください」と。これだけです!(簡単!)

一日に何度も、どんなプチな怖れでも、不安でも、地道に気づいてさし出してゆきます。見え方を変えてもらいます。

怖れが見えるときには、もれなくまがいものの自分になっています。身体だと思って、身体の目で見ています。しかし、私たちは制限いっぱいの「カラダ」などではなく、あくまでも自由そのものの「スピリット」です。身体というのは自分のこころのなかにあるイメージにすぎないのです。

身体の目には、身体の目にしか見えないものが見えてしまう! それこそが、怖れであり、苦しみであり、残酷さだったのです。

「カラダ」だと信じて、「カラダ」の目だけを頼りにしてしまったところに、すべての間違いがあります。

制限がかかって、苦しみが生まれ、まったく平和なほんとうの世界は見えなくなってしまったということ。まさに、ニセモノの目をとおして架空の世界を見てアセっているわけです。

この目をとおして見ていると、あらゆるものについて「スリラー」バージョンしか見えません。しかし、いったんこころの目にスイッチしてもらったら、どんなに悲惨に見えていることでも「スーダラ」バージョンに変化させることができて、あ〜 ・・・ なにもコワイものなんてなかったんだ〜(汗)、ということに気づきます。(だまし絵の別の見方が見えたときのような、「あ〜!なんだこういうこと」みたいなひらめきがあったりします。)

なにかを変えたいとき「スリラー」バージョンのなかで必死にも変えようともがいて努力するのは、いわばエネルギーのムダづかいなのです。

ただハイヤーセルフにお願いすることで、チャンネルをスイッチして別バージョンを見せてもらいましょう。(ただお願いするだけ、というシンプルさ!)

身体の目で見る世界では、すべては実るようで実りません。しかし、こころの目で見ることができる平和な「スーダラ」バージョンへと切り替えをお願いするだけで、余計な心配も策略も努力もいらなくなります。実らせることすら必要ないのです。高い叡智の秩序にしたがって、誰にとってもハッピーとなる結末が約束されているからです。

ただ、スイッチするために気づくこと。お願いすること。スーダラ節を踊るために必要なことはとてもシンプルです!

そして、自分がスーダラを踊っていることに気づくと、まわりの仲間もきっと一緒にスーダラを踊っていることでしょう♪

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング