日曜日, 10月 21 2018

日曜日, 10月 21 2018

気づきの日記「人生を紡(つむ)・・・がない」

私たちのエゴ(思考)は、お喋りが大好き。だから、ほっておくと一日じゅう「ああだ、こうだ」と喋りつづけることができます。

ためしに、少しのあいだ何も考えないようにしてみましょう。すると ・・・ あっというまにアタマのなかにお喋りの洪水が勝手にまきおこって、それに参戦している自分に気づくと思います。

路上でぶつぶつ言いながら歩いている人を目にすると、「あの人、頭がおかしい」とコワがりますが、もし私たちのこころに拡声器がついていようものなら、まちがいなく全員「アブナイ人」です!(笑) いつか目にしたアブナイおじさんのつぶやきと、たいして変わらないことに笑ってしまうことでしょう。

エゴ(思考)はひっきりなしに、ものごとに意味づけしたり、原因を推測したり、結果を予測したり、あれはうまくいったのいかなかったのとジャッジしたりするのが大好き。ちょっとまえの出来事に対しても、だいじに握りしめておいてあれこれ批判やコメントをくりかえします。

しかし、これをすることじたいが私たちの苦しさの原因なのだ、ということになかなか気づくことができません。

どうやらエゴは、ものごとの理由がわからないと落ち着かないらしいし、原因さえわかれば納得できると思っているようだし、結果はこうだと決めておけば安心できると信じているし、なによりも自分のルールにのっとってものごとを把握しておかないと気がすまないのです(私こそが “神” と思っていますから・笑)。

でも、ぜんぜんそれらは正しくないので、起こることとのあいだにさらに葛藤を生みだします。そして、「こんなはずじゃなかった・・・汗」という予想外が生み出されます(もともと、あれこれ考えることさえしなかったら、こんながっかり感も起こらなかったのですが・・・)。

予想外とは、もともと自分のたったひとつの考えに固執していることから生じるものです。

エゴがなんでこんなに忙しく喋っているのかというと、コワイからです。

こころが静かになっちゃったら、イヤ〜な気持ちが浮上してきそうだから、とりあえずこころを雑音で満たしておきたいのですね。あるいは、カラッポ感が耐えられないので、ウソでもなんでもいいからお喋りをつめこんでおきたいのです。

そんな理由から、私たちは何かを目にするとすぐに意味づけをしたくなります。

たった一枚の絵を見せられても、すぐさまストーリーを紡ぎはじめるのです。

たとえば、こんな絵 ・・・

「ああ、赤ずきんちゃんのオオカミね」「おばあさんになりすまして、食べてやろうと赤ずきんちゃんを待ってるのね」「でも、大丈夫!ハッピーエンドだから」とほとんどの方が「赤ずきんちゃん」のストーリーが浮かんだと思うのです。

でも、絵のなかには、赤ずきんの姿も、おばあさんのかわりだというくだりも、「食べちゃうぞ!」の文字も、危険が襲っても大丈夫だということも、さらにこれがオオカミであることすら、この絵はこれっぽちも示していません。

ただ、「こういう」絵なのです。

じゃあ、なぜわかったの? なぜ、こんな長々とストーリーを語ったの? ・・・ それは、過去から情報を引っぱってきたからです。「オオカミ」「ナイトキャップ」「ベッド」・・・ 「赤ずきんちゃんね!って。

私たちは、自分の過去の体験や知識からさまざまなものを集めてきて、いろいろなものごとがちゃんとわかったような気になっているけれど、ほんとうにわかっているのでしょうか?

それはかえって「あるがまま」を混乱させることになっているのかもしれません。

つまり、この絵には何の意味もない、ということなのです。どんな意味も内容も暗示していないし、そんな凶暴なストーリーもハッピーエンドも語っていはいません(宇宙人がみたら、まったく何がなんだかわからないでしょう)。

そんなふうに、私たちは自分の過去から、即座に今、目にしているものに対して意味づけを行います。自分でそうしているともわからないほど、瞬時に意味をでっちあげているのです。

しかしその意味づけは、この一枚の絵が教えてくれているように、ぜんんぜん正しくはないし、ほんとうではない、ということなのです。

これはただ、これだけです。

じつは、人生の一瞬、一瞬もこの一枚の絵のようなものです。

いろいろな絵柄の絵が積みあげられていて、私たちはそれをつぎつぎにめくっていきながら、即座にストーリーを紡ぎはじめます。

まったく吹き出しも注釈もない一枚一枚の絵(瞬間)は、じつはどのようにも解釈できるので。

そうそう、松本人志さんの「IPPONグランプリ」という番組で、芸人さんたちが提示された写真や絵を見て、瞬時にストーリーやセリフをつけるというのがありますが、同じ絵柄がシニカルになったり、笑えたり、悲惨だったり ・・・ 芸人さんの目線でまったく違う意味あいをおびてきます。

まさにわたしたちもそれをやっている、というわけです。

そして、それらの絵たちは、解釈されたままにストーリーを紡ぎはじめます。なぜなら、私たちは自分が「見る」と決めたものをなんとしてでも目にするからです。

しかし実際のところ、一枚一枚の絵には何の意味もないし、ましてや他の絵札との因果関係もまったくないのです(カルタが一枚一枚独立しているのと同じです)。

あれがあったから、こうなって、きっとああなる ・・・ 私たちは一瞬という絵札を並べて自分なりの物語を語っていますが、そこにはそんな物語はどこにも存在していません。一枚の絵(一瞬)は、それぞれそれでそのまま完結しています。

ただ「あるがまま」があるだけなのです。そして、一瞬は一瞬で完結します。私たちが意味をあたえて、つなげない限り、ストーリーはどんなストーリーも紡がれないのです。

ときどき思います。まったく過去の記憶がなく、自分に対するイメージも、人に対する決めつけもなかったら ・・・ 一瞬一瞬はどうなるのだろう? どんなふうに感じるのだろう? と。

おそらく、毎瞬、毎瞬、「はじめまして」の気持ちで人に会うかもしれないし、なんてことない体験でもびっくりするぐらい新鮮かもしれないし、すべてがきっと驚きで満ちていることでしょう。それが「あるがまま」の素晴らしさですね。(毎日毎日、記憶をなくしてしまう女の子と恋をして、毎日がファーストキスなんていう話しがありましたっけ。「50回目のファースト・キス」、私が観たのはドリュー・バリモア バージョン)。

つながりがないと、じつは怖れというものも存在しなくなります。

また、過去からリベンジするためにもちこむあれこれもなく、まったくプレッシャーがなくなって、きっとどれだけ軽くなることか・・・。

「きょうは新しい日」「私はきょう生まれました」、あるいは「一瞬一瞬、私は新しい」・・・ まったくストーリーを紡ぐことなく、こんなまっさらな気持ちでいっときいっときに向きあったら、どんな感じがするでしょうね?

ほんとうは、一瞬とはそんな無垢なまっさらなものであり、それが私たち自身のまっさらさなのですね。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

18-10-21 人生を紡(つむ)・・・がない

私たちのエゴ(思考)は、お喋りが大好き。だから、ほっておくと一日じゅう「ああだ、こうだ」と喋りつづけることができます。

ためしに、少しのあいだ何も考えないようにしてみましょう。すると ・・・ あっというまにアタマのなかにお喋りの洪水が勝手にまきおこって、それに参戦している自分に気づくと思います。

路上でぶつぶつ言いながら歩いている人を目にすると、「あの人、頭がおかしい」とコワがりますが、もし私たちのこころに拡声器がついていようものなら、まちがいなく全員「アブナイ人」です!(笑) いつか目にしたアブナイおじさんのつぶやきと、たいして変わらないことに笑ってしまうことでしょう。

エゴ(思考)はひっきりなしに、ものごとに意味づけしたり、原因を推測したり、結果を予測したり、あれはうまくいったのいかなかったのとジャッジしたりするのが大好き。ちょっとまえの出来事に対しても、だいじに握りしめておいてあれこれ批判やコメントをくりかえします。

しかし、これをすることじたいが私たちの苦しさの原因なのだ、ということになかなか気づくことができません。

どうやらエゴは、ものごとの理由がわからないと落ち着かないらしいし、原因さえわかれば納得できると思っているようだし、結果はこうだと決めておけば安心できると信じているし、なによりも自分のルールにのっとってものごとを把握しておかないと気がすまないのです(私こそが “神” と思っていますから・笑)。

でも、ぜんぜんそれらは正しくないので、起こることとのあいだにさらに葛藤を生みだします。そして、「こんなはずじゃなかった・・・汗」という予想外が生み出されます(もともと、あれこれ考えることさえしなかったら、こんながっかり感も起こらなかったのですが・・・)。

予想外とは、もともと自分のたったひとつの考えに固執していることから生じるものです。

エゴがなんでこんなに忙しく喋っているのかというと、コワイからです。

こころが静かになっちゃったら、イヤ〜な気持ちが浮上してきそうだから、とりあえずこころを雑音で満たしておきたいのですね。あるいは、カラッポ感が耐えられないので、ウソでもなんでもいいからお喋りをつめこんでおきたいのです。

そんな理由から、私たちは何かを目にするとすぐに意味づけをしたくなります。

たった一枚の絵を見せられても、すぐさまストーリーを紡ぎはじめるのです。

たとえば、こんな絵 ・・・

「ああ、赤ずきんちゃんのオオカミね」「おばあさんになりすまして、食べてやろうと赤ずきんちゃんを待ってるのね」「でも、大丈夫!ハッピーエンドだから」とほとんどの方が「赤ずきんちゃん」のストーリーが浮かんだと思うのです。

でも、絵のなかには、赤ずきんの姿も、おばあさんのかわりだというくだりも、「食べちゃうぞ!」の文字も、危険が襲っても大丈夫だということも、さらにこれがオオカミであることすら、この絵はこれっぽちも示していません。

ただ、「こういう」絵なのです。

じゃあ、なぜわかったの? なぜ、こんな長々とストーリーを語ったの? ・・・ それは、過去から情報を引っぱってきたからです。「オオカミ」「ナイトキャップ」「ベッド」・・・ 「赤ずきんちゃんね!って。

私たちは、自分の過去の体験や知識からさまざまなものを集めてきて、いろいろなものごとがちゃんとわかったような気になっているけれど、ほんとうにわかっているのでしょうか?

それはかえって「あるがまま」を混乱させることになっているのかもしれません。

つまり、この絵には何の意味もない、ということなのです。どんな意味も内容も暗示していないし、そんな凶暴なストーリーもハッピーエンドも語っていはいません(宇宙人がみたら、まったく何がなんだかわからないでしょう)。

そんなふうに、私たちは自分の過去から、即座に今、目にしているものに対して意味づけを行います。自分でそうしているともわからないほど、瞬時に意味をでっちあげているのです。

しかしその意味づけは、この一枚の絵が教えてくれているように、ぜんんぜん正しくはないし、ほんとうではない、ということなのです。

これはただ、これだけです。

じつは、人生の一瞬、一瞬もこの一枚の絵のようなものです。

いろいろな絵柄の絵が積みあげられていて、私たちはそれをつぎつぎにめくっていきながら、即座にストーリーを紡ぎはじめます。

まったく吹き出しも注釈もない一枚一枚の絵(瞬間)は、じつはどのようにも解釈できるので。

そうそう、松本人志さんの「IPPONグランプリ」という番組で、芸人さんたちが提示された写真や絵を見て、瞬時にストーリーやセリフをつけるというのがありますが、同じ絵柄がシニカルになったり、笑えたり、悲惨だったり ・・・ 芸人さんの目線でまったく違う意味あいをおびてきます。

まさにわたしたちもそれをやっている、というわけです。

そして、それらの絵たちは、解釈されたままにストーリーを紡ぎはじめます。なぜなら、私たちは自分が「見る」と決めたものをなんとしてでも目にするからです。

しかし実際のところ、一枚一枚の絵には何の意味もないし、ましてや他の絵札との因果関係もまったくないのです(カルタが一枚一枚独立しているのと同じです)。

あれがあったから、こうなって、きっとああなる ・・・ 私たちは一瞬という絵札を並べて自分なりの物語を語っていますが、そこにはそんな物語はどこにも存在していません。一枚の絵(一瞬)は、それぞれそれでそのまま完結しています。

ただ「あるがまま」があるだけなのです。そして、一瞬は一瞬で完結します。私たちが意味をあたえて、つなげない限り、ストーリーはどんなストーリーも紡がれないのです。

ときどき思います。まったく過去の記憶がなく、自分に対するイメージも、人に対する決めつけもなかったら ・・・ 一瞬一瞬はどうなるのだろう? どんなふうに感じるのだろう? と。

おそらく、毎瞬、毎瞬、「はじめまして」の気持ちで人に会うかもしれないし、なんてことない体験でもびっくりするぐらい新鮮かもしれないし、すべてがきっと驚きで満ちていることでしょう。それが「あるがまま」の素晴らしさですね。(毎日毎日、記憶をなくしてしまう女の子と恋をして、毎日がファーストキスなんていう話しがありましたっけ。「50回目のファースト・キス」、私が観たのはドリュー・バリモア バージョン)。

つながりがないと、じつは怖れというものも存在しなくなります。

また、過去からリベンジするためにもちこむあれこれもなく、まったくプレッシャーがなくなって、きっとどれだけ軽くなることか・・・。

「きょうは新しい日」「私はきょう生まれました」、あるいは「一瞬一瞬、私は新しい」・・・ まったくストーリーを紡ぐことなく、こんなまっさらな気持ちでいっときいっときに向きあったら、どんな感じがするでしょうね?

ほんとうは、一瞬とはそんな無垢なまっさらなものであり、それが私たち自身のまっさらさなのですね。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング