金曜日, 7月 3 2020

金曜日, 7月 3 2020

気づきの日記「戦う相手はいつも自分」

 

私たちが何かに悩んでいるとき・・・ たいてい、そのスタート地点ですでに間違ってしまっていることに気がつきません。

悩んでいる・・・ つまり、苦しんでいる、ということは、何かによって攻撃されているということですが、その何かがじつは存在していないものなのです。

たとえば、クライエントのAさん。

「最近、彼が連絡をくれません。嫌われてしまったのかも ・・・」「もう私には興味がなく、終わりになってしまうにちがいない」と涙をこぼされます。

「スタート地点で間違っている」というのをAさんの場合で考えると、

彼はAさんに対して、「嫌いになりました」「興味がありません」とはひとことも言っていないのです。さらに、「連絡がない」 = 「嫌いになった」証拠ではありません。自分で勝手に解釈し、悲しい結論を出してしまっています。

つまり ・・・ 心配ごとは、全部Aさん自身の考えによるものであり、推測にすぎない、ということなのです。実際に起こっていることではなく、自分の解釈です。

自分の解釈に対して抵抗していることになります。

「連絡がない」とき ・・・ 彼は、生活するだけで手いっぱいなのかもしれないし、なにかこころがモヤモヤしているのかもしれないし、あるいはただ自分の活動に集中しているだけなのかもしれません。はたまた、最近心配な表情を見せるAさんに対して、自分こそ嫌われたと不安に思っているのかもしれません。

が、これも全部推測です。結局、何を考えても真実ではないのです。

私たちは「何も本当のことを知らない」し、「何が真実かもわからない」のです。

自分の考えとは、自分独自の解釈で、ある意味「でっちあげ」なので、その考えに悩まされていることになります。

私たちの自動的な解釈は、自分を守りたいという自己防衛本能が働いているため、どうしても「攻撃的な見方」「被害者的な考え」になりがちです。

「私は攻撃されている」「傷つけられている」「ひどい立場におかれている」「悲惨なことが進行している」・・・エゴはドラマチックな悲劇の主人公が大好きです。

その目線からものごとを見れば、なんでも脅威に感じるし、自分を守らなければならないと感じて反撃にでてしまいます。

ついにその不安に耐えられなくなると、自ら関係を破壊し、立ち去ることでラクになろうとします。(あんなに相手を失うのがイヤといっていたのに、自分から破壊して去って行くのは本末転倒です。エゴのおもいは、いつもツジツマがあっていません!汗)

「可哀想な独りばっち」になることこそが、エゴがもくろんでいることだからです。

なので、他からやってくるように見えるどのような攻撃であっても、「攻撃」は自分のこころのなかにしか存在しないのです。

目にうつる出来事(形)は、じつは何も意味していません。

形だけで判断してしまうと、そこにある意味(内容)が見えなくなってしまいます。星の王子さまが言ったように、「ほんとうのことは目に見えない」からです。

だから、見かけではほんとうのことはわからないことを理解して、まったく判断などしないことです。

Aさんにも、「そのいろいろな推測がなかったらどんな気持ち?」とおうかがいしたら、「平和な気持ち」とおっしゃいました。その自分の判断こそが、苦しくさせているがわかります。

だから、判断するよりもこころをからっぽにして、あるがままを受け入れます。判断のかわりに、つながる気持ち、思いやりの気持ちで状況を見てみます。

この関係において、自分がすることは「反撃すること」ではなく、「愛すること」だと思い出しましょう。

批判はすでに攻撃なのです。攻撃してしまったら、もう愛するという選択肢は失われてしまいます。相手は敵になってしまったからです。

ただなにも判断せずに(攻撃せずに)、こころをカラッポにしておくと、そこにはすでに愛があります。そしてカラになったスペースに、ハイヤーセルフからただしい見方がポトリと落ちてきて導いてくれます。

たとえば、Aさんの場合だったら、すでに不安になっている感情は受けとめて感じてあげます。そして、「私は彼に何が起きているのかわかりません」といったんこころをカラにして、「ハイヤーセルフ、私が彼にできることは何でしょう?」と尋ねます。

もしかすると、「彼のこころは今、モヤモヤしているのかもしれない(そう!私たちは誰でも自分でもわからずモヤモヤするときがあります。)だったら、電話をして、彼の話しをとことん聞いてみようかな。そうしたら、こころが少し軽くなるかも」・・・そんなインスピレーションがやってくるかもしれません。

愛するとは、つながろうとすること。「してもらうこと」をじっと待っているよりも、なにができるかな?と相手に対して「できること、与えられること」を思いやります。つながろうとします。

自分の悲惨なストーリーにはまりこむことなく、おもいやり、気づかい、つながりのこころで与えようとするのです。

私たちのこころには、つねに自分を不幸にしようとするエゴの声がひそんでいます。

その声をやすやすと受け入れてしまうと、存在さえしない架空のストーリーに迷いこみ翻弄されることになります。

怖れの気持ちを手放して、こころをまっさらにして、ただ受け入れる、近づく、与える、つながりあうことだけを目標にしてみましょう。

自作のでっちあげのストーリーさえなければ、安らかなこころのなかでただそこにあるほんとうのことだけが見えてきます。

そして、それはいつもお互いにとって必ず癒しになるように働き、こころが繋がりあうことを体験できるようになります。そもそも出会いの意味じたいが、癒してつながりあうためなのですから大丈夫☆

エゴの悲しいストーリーは、すべてハイヤーセルフに渡してしまいましょう。そして、攻撃という見方ではなく、つねに愛とつながりを選びましょう。

ただまっさらなこころでおもいやりや気づかいを「与える」ために、相手とつながってみましょう!

それが、私たちがここに学びにやってきたことだから。学べがかならず贈りものがやってくるからです ♫•*¨*•.¸¸♪

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

20-07-03 戦う相手はいつも自分

 

私たちが何かに悩んでいるとき・・・ たいてい、そのスタート地点ですでに間違ってしまっていることに気がつきません。

悩んでいる・・・ つまり、苦しんでいる、ということは、何かによって攻撃されているということですが、その何かがじつは存在していないものなのです。

たとえば、クライエントのAさん。

「最近、彼が連絡をくれません。嫌われてしまったのかも ・・・」「もう私には興味がなく、終わりになってしまうにちがいない」と涙をこぼされます。

「スタート地点で間違っている」というのをAさんの場合で考えると、

彼はAさんに対して、「嫌いになりました」「興味がありません」とはひとことも言っていないのです。さらに、「連絡がない」 = 「嫌いになった」証拠ではありません。自分で勝手に解釈し、悲しい結論を出してしまっています。

つまり ・・・ 心配ごとは、全部Aさん自身の考えによるものであり、推測にすぎない、ということなのです。実際に起こっていることではなく、自分の解釈です。

自分の解釈に対して抵抗していることになります。

「連絡がない」とき ・・・ 彼は、生活するだけで手いっぱいなのかもしれないし、なにかこころがモヤモヤしているのかもしれないし、あるいはただ自分の活動に集中しているだけなのかもしれません。はたまた、最近心配な表情を見せるAさんに対して、自分こそ嫌われたと不安に思っているのかもしれません。

が、これも全部推測です。結局、何を考えても真実ではないのです。

私たちは「何も本当のことを知らない」し、「何が真実かもわからない」のです。

自分の考えとは、自分独自の解釈で、ある意味「でっちあげ」なので、その考えに悩まされていることになります。

私たちの自動的な解釈は、自分を守りたいという自己防衛本能が働いているため、どうしても「攻撃的な見方」「被害者的な考え」になりがちです。

「私は攻撃されている」「傷つけられている」「ひどい立場におかれている」「悲惨なことが進行している」・・・エゴはドラマチックな悲劇の主人公が大好きです。

その目線からものごとを見れば、なんでも脅威に感じるし、自分を守らなければならないと感じて反撃にでてしまいます。

ついにその不安に耐えられなくなると、自ら関係を破壊し、立ち去ることでラクになろうとします。(あんなに相手を失うのがイヤといっていたのに、自分から破壊して去って行くのは本末転倒です。エゴのおもいは、いつもツジツマがあっていません!汗)

「可哀想な独りばっち」になることこそが、エゴがもくろんでいることだからです。

なので、他からやってくるように見えるどのような攻撃であっても、「攻撃」は自分のこころのなかにしか存在しないのです。

目にうつる出来事(形)は、じつは何も意味していません。

形だけで判断してしまうと、そこにある意味(内容)が見えなくなってしまいます。星の王子さまが言ったように、「ほんとうのことは目に見えない」からです。

だから、見かけではほんとうのことはわからないことを理解して、まったく判断などしないことです。

Aさんにも、「そのいろいろな推測がなかったらどんな気持ち?」とおうかがいしたら、「平和な気持ち」とおっしゃいました。その自分の判断こそが、苦しくさせているがわかります。

だから、判断するよりもこころをからっぽにして、あるがままを受け入れます。判断のかわりに、つながる気持ち、思いやりの気持ちで状況を見てみます。

この関係において、自分がすることは「反撃すること」ではなく、「愛すること」だと思い出しましょう。

批判はすでに攻撃なのです。攻撃してしまったら、もう愛するという選択肢は失われてしまいます。相手は敵になってしまったからです。

ただなにも判断せずに(攻撃せずに)、こころをカラッポにしておくと、そこにはすでに愛があります。そしてカラになったスペースに、ハイヤーセルフからただしい見方がポトリと落ちてきて導いてくれます。

たとえば、Aさんの場合だったら、すでに不安になっている感情は受けとめて感じてあげます。そして、「私は彼に何が起きているのかわかりません」といったんこころをカラにして、「ハイヤーセルフ、私が彼にできることは何でしょう?」と尋ねます。

もしかすると、「彼のこころは今、モヤモヤしているのかもしれない(そう!私たちは誰でも自分でもわからずモヤモヤするときがあります。)だったら、電話をして、彼の話しをとことん聞いてみようかな。そうしたら、こころが少し軽くなるかも」・・・そんなインスピレーションがやってくるかもしれません。

愛するとは、つながろうとすること。「してもらうこと」をじっと待っているよりも、なにができるかな?と相手に対して「できること、与えられること」を思いやります。つながろうとします。

自分の悲惨なストーリーにはまりこむことなく、おもいやり、気づかい、つながりのこころで与えようとするのです。

私たちのこころには、つねに自分を不幸にしようとするエゴの声がひそんでいます。

その声をやすやすと受け入れてしまうと、存在さえしない架空のストーリーに迷いこみ翻弄されることになります。

怖れの気持ちを手放して、こころをまっさらにして、ただ受け入れる、近づく、与える、つながりあうことだけを目標にしてみましょう。

自作のでっちあげのストーリーさえなければ、安らかなこころのなかでただそこにあるほんとうのことだけが見えてきます。

そして、それはいつもお互いにとって必ず癒しになるように働き、こころが繋がりあうことを体験できるようになります。そもそも出会いの意味じたいが、癒してつながりあうためなのですから大丈夫☆

エゴの悲しいストーリーは、すべてハイヤーセルフに渡してしまいましょう。そして、攻撃という見方ではなく、つねに愛とつながりを選びましょう。

ただまっさらなこころでおもいやりや気づかいを「与える」ために、相手とつながってみましょう!

それが、私たちがここに学びにやってきたことだから。学べがかならず贈りものがやってくるからです ♫•*¨*•.¸¸♪

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング