気づきの日記「自分で置かなければ、そこにない」
自分だけが出入りする、自分の部屋で、
ゴミでいっぱいの大きなダンボール箱につまづいて転んだとしたら・・・
おそらく、そのダンボールをすみやかに自分で片づけることと思います。
まさか、「誰だ!こんなところにダンボールなんか置いて!」と怒ったり、「ここにこんなものがあっていいはずがない!」と不平不満を言いつづけることはしないと思います(健忘症でないかぎり・・・)。
文句を言いつづけるよりも、「ああ、やっちゃった!」とアタマを掻きながらさっさと片づけて、気持ちよく過ごすことの方が大切だと感じるはずです。
私たちそれぞれが目にしている世界も、まさにこの自分の部屋と同じようなものです。
つねに自分の個人的な思いが実現され、その自分の思いをいつも自分が目にしているからです。すべては自分の思いの結果であり、思ったとおりになっているのです
なのに、目のまえに問題が現れてくると、「なぜ、こんな問題が現れるんだ!」「こんなものは知らない!いったい誰のせいだ?!」と私たちはすぐさま被害者の立場に自分をおいてしまいがちです。
自分の部屋のダンボールと同じで、「自分がそこに置かなければ、そこにそれはあるはずがないのです」。
これは、どこに何があろうと、まったく同じです。私が置かなければ、それはそこにない。
そして、ただそれを「どければいい」のです。
しかし、「ただどければいい」ということを忘れて、私たちは「なぜここにあるのか?」「誰がこんなことをしたのか?」と架空の犯人探しに乗り出します。
それで、問題というダンボールは片づくことはありません。
部屋にあるダンボールを片づけるのと同じで、自分の目のまえに現れたダンボールという問題も自分で片づけるほかないのです。
「誰が?」「なぜ?」と論点をそらすことなく、「わたくしでございました!」「だから、自らすみやかに片づけます!」とさっさとお片づけにとりかかることです。
「誰が?」「なぜ?」は片づけないための、口実にすぎません。
目のまえのダンボール(問題)を片づけるときのポイントは、
1、「ああ、これは私が置いたんだな・・・」とまずは素直に認めてしまいましょう。
「私が置いたからこそ、私こそが取り除くことができる!」という許可につながります。
2、次は、「こんなものは私には必要がない」と気づきましょう。
「私が必要ではない!」と決めたのなら、それは必要とはされず消えてなくなってゆきます。
3、そして、「私が見たいのは、邪魔なものやゴミのようなものではなく、私を、そしてみんなを喜ばせ幸せにしてくれる完全なものだけです」と改めて何を見たいのかを決め直します。
4、さらに、高い自己であるハイヤーセルフに「私が完全なものだけを見ることができるように、私のこころを私である愛へと戻してください」とお願いしましょう。
非力な被害者、犠牲者、文句を言う人になる・・・というのは、どこか快感を感じられるものでもあります。
「あいつが悪いからだ・・・なんてけなげで可哀想な私♡」・・・というように、傷ついているはずなのに、どこかイイひとの快感に浸っているところがあるのです。だから、被害者はなかなかやめられません。
しかし、「可哀想な人」をやりつづいけていると「可哀想な人」のスパイラルに巻き込まれて抜け出せなくなります。
自分が「私は可哀想な人だ」と信じているので、可哀想な人度はどんどん加速してゆきます。
いったんこのスパイラルに巻き込まれると、なかなか方向を変えられなくなるのです。こころは自分が信じたとおりに、どんどん可哀想な現実を見せてくれるからです。そして、それに反応し、またそこから加速する・・・というように。
そのぐらい私たちのこころは「こうだ!」といえば「こうなり」、「ああだ!」といえば「ああなる」、とても素直でパワフルなちからを持ち合わせているのです。
だから、目のまえに問題というゴミのダンボールが転がっていたら、「おっと!これは、わたくしの仕業でございました!」とあれこれ文句をならべずに、すぐに受け入れてお片づけにはいりましょう。
目のまえにやってくるものを自分から離れたものとして考えずに、自分のこころの結果として受けとめる練習をしてみましょう。
早く気づくことができるようになればなるほど、自分のものとして捉えられるようになればなるほど、自分の目にする世界の軌道修正がしやすくなります。
そして、自分がどのような世界に住みたいのか、どのような経験をしたいのかにあらためて気づき、自らそれを自分に与えてあげることができるのです。
それができる私たちは、無力な存在ではありません🥰