気づきの日記「豊かさを手にするには ~こころの方向を転換する~」
あなたが目にしている世界は、あなたにどのように映っているでしょうか?
世界に歓迎され、愛されていると感じていますか? それとも、気にかけられていない孤独感を感じますか?
世界は豊かさや喜びを見せてくれているでしょうか? それとも、奪い取られるような生きづらさを感じるでしょうか?
私たちは、「世界とは、そのようなものだ」という無力感を抱きがちです。しかし、そのようである必要はないのです。
じつは、世界はどのようにでも「変わる」ことができるのです。
目にするすべては私たちのこころが描き出している映像であり、たった今の「自分の思い」を映し出しているからです。
こころの状態をリアルタイムで目にしている、ということになります。
「こんな世界はうんざりだ!」と不満を言っても、何も変えられないどころか、むしろ悪化させてしまいます。
それは、自分が映し出したものの責任を放棄し、被害者になりかわるからです。世界を自分とは別のものとして見れば見るほど、手に負えない感覚が増してしまい、修正の糸口を失ってしまうからです。
「世界と自分のこころはひとつであり、切り離すことができない」というのは、じつは良い知らせなのです。
世界はどうにもならないままそこに存在している必要はなく、自分のこころを変えさえすれば、たった今変化をもたらすことができるからです。こころの向かう方向が変われば、世界の方向も変わります。
では、どのようにこころを変えればよいのでしょうか?
それは、「不足」の思いではなく、「すでに十分にある」という豊かさへの方向転換です。
私たちは誰もが慢性的な欠乏感を抱えています。
「足りないから、頑張ろう」、「まだダメだから、努力しよう」というように、「不十分さを、なんとかする」というのがさまざまなことの動機になっています。
だからこそ、毎日お尻に鞭打って、やりたくないことも取り組まなければならないのです。
こころは莫大なパワーのせいで、「足りない」とつぶやこうものなら、「足りない」状態をすぐさま映しだし、目にしたものに反応することで、さらに「足りない」状態が深刻化する・・・という悪循環に陥ります。
スタート地点の思いが間違っていれば、どこまでいっても間違った結果をひきづることになるのです。
まずは、スタート地点の思いを180度転換しなければなりません。
「足りないから頑張る」という思いから、「十分にあるから、それを目にする」という考えにシフトします。
しかし、ただ十分にあると信じようとしても、ウソだと感じるかもしれません。私に無尽蔵の豊かさがあるという根拠を、しっかり知る必要があります。
そもそも自分の正体であるこころは、宇宙の源である無限の存在とつながっていて一つです。私たちがそれを忘れていようとも、その事実は変わりありません。
自分はどこにもつながっておらず、なんの供給もないと信じることはできますが、それでも依然として今も無限の源から切り離されることはなく、豊かさはすでにあります。それを「見る」か「見ないのか」は自分しだいです。
自分が信じるものを目にし体験するのであれば、自分の正体を思い出すだけで「豊かさ」とつながることができるのです。
不十分さにとりつかれたこころが、制限だらけの世界を映しだしているうちに、どんどん制限が現実のように感じられてしまいました。
そして、「足りなさ」にとりつかれたまま、「足りない」世界を映し出すことをやめることができません。
だからこそ、今こころを「欠乏」から方向転換し、無尽蔵に受け取る自分を思い出さなければならないのです。
無尽蔵に受け取るには、動機こそが重要となります。
正しい動機とは、「喜び」のために受け取ろうとすることです。
源の豊かさは、そこにつながるすべてのこころのためのものであり、受け取り喜び合うために受け取られます。
「他と差をつけるため」とか、「自分で溜めこむため」というようなエゴ的な目的においては、無尽蔵の豊かさは存在しないように感じられるのです。
ひとつである仲間と分かち合い喜びあうためであれば、宇宙は「どうぞ、どうぞ!これはあなたたちのものです」とふんだんに受け取れるようにしてくれるのです。
このような理由で、豊かさは「すでにあるのだ」とこころを変えれば、今すでにあるものを映しだしてくれます。
こころを方向転換させたなら、ふらふらと元の考えに戻らないことです。こころがふらふらすると、豊かさも損失も両方が見えてしまうからです。
ただ「私はすでに与えられているから大丈夫!こころを開いて、受け取るだけだ」と、確信とともに豊かさにこころを開きましょう。
そして、やってくる豊かさが小さなものであっても、それに気づいて、感謝し、分かち合うこころをもちましょう。気づけば気づくほど、やってくるものに敏感になることができます。
「宇宙が面倒をみてくれるから、私はいつだって大丈夫なのだ」という安心感のなかでくつろぎ、与えられるものを分かち合い、楽しみましょう。こころから楽しめたものは、さらに増大してゆくことでしょう。