気づきの日記「こころが平和になるものの見方 ~一つ目小僧になる~」
私たちがものを見るとき、身体についている二つの目でものごとを捉え、その目を通して見ているように感じています。
良いにしろ、悪いにしろ、興味がわけばわくほど、そのものにしっかりと焦点をあて、それだけを見ようとしてしまいます。
このように焦点が固定されたものは、まるでその輪郭をくっきりと太線で囲んだように、自分自身にとってよりリアルに、よりシリアスに、より特別に見えてしまいます。それだけが大きくピックアップされたように感じるのです。
それが怖ろしいものであるならば、それは自分の存在よりも格段に大きく感じられ、自分を圧倒し、もはや自分の手には負えないほどの存在感を感じてしまうかもしれません。
私たちは好きなものに対してでも、怖れているものに対してでも、無意識のうちにこのような見方をしているため、二つの目で見るということはあるがままにものごとを見ることができず、まるで天眼鏡のような働きをしてしまうのです。
しかし、これとは別のものの見方もあるのです。
それは、二つの目ではなく、一つ目で観ようとするものの見方です。
自分が目にしている画面全体を、一つの目として認識します。この画面自体が大きな一つの目となります。
それは自分の身体の目で見ているというよりは、こころの目を通して観ている、という感じです。
こころの目で観ているので、そこに映っているすべては自分のこころのなかに存在しており、自分のこころがつくり出したイメージだ、ということです。
この一つ目で観ている大きな画像を、切り取ったり、太枠で囲んだりして重要にすることなく、そのまま眺めます。
二つの目で見ることではズームが起こりますが、この一つの目で観る見方は引きで見ること、俯瞰して見ることです。
つまり、どこにも特別な注意を向けず、どこも重要視せず、どこにも価値判断を下さず、全体をそのままにして、退いてゆったりと観る、というような感じです。
そして、この一つ目で観ている枠のなかを、ものごとがただ自由に通りすぎるにまかせます。
それらは、やってきては勝手に過ぎ去ってゆくことでしょう。
自分自身はそこにはかかわらず、コントロールしようともしないので、それは自由にやってきては流れ行きます。自分は画面の少し後ろの方から、静かに眺めているような感じです。
このとき、ものごとは平和な川の流れのようです。
このように全体をゆったりと観て、そのままにしておくとき、身体もこころもゆったりとリラックスするのを感じませんか?
何も切り取らないし、何も特別にしないので、そこには摩擦が起こらず、葛藤もなく、平和に流れ行きます。
なによりも、価値判断や比較がないので、エゴの思い悩む思考がなく、混乱や怖れが生まれません。
この一つの目で観る見方のなかで、ものごとは自由に現れ、どこにもひかかることなく、自由に消えてゆくことができます。
そして、それを見ている存在も、ただ平和にリラックスすることができるのです。
二つの目で見ているのは身体である個人の「私」ですが、一つの目で観ているのは身体ではなく、個人の「私」でもなく、「being(在る)、生」そのものです。
「being(在る)、生」は、この世界ではなく世界を超えた源の存在とつながっているので、この一つの目で観る世界はこの世を超えているのです。
大いなる源とつながっているので、価値判断がなく、心配がなく、まさにあるがままの存在で、すべてを信頼し、流れに身をまかせます。
ただゆったりとしてものごとを流れるままにし、画面全体を価値判断なく静けさのなかで眺めてみましょう。
比較や闘いや葛藤が起こらない静けさと平和のなかに存在してみましょう。
ものごとがただ現れて、自然に消え去ってゆくままにしましょう。
これが、こころに安らぎと解放をもたらし、また身体もリラックスさせてくれる、一つ目小僧の平和なものの見方です。
そして、この全体を含む見方こそが、私であり、私の存在そのものなのです。