気づきの日記「不平不満は欠乏のもと 〜今あるものを愛でること〜」

「韓国に行ってきたんだって?美味しい韓国料理堪能できた?」と私。
すると、「韓国まで行ったってさ、いまどきは東京の方がなんだって旨いんだよ・・・」とA氏。

「お仕事で表彰されたんだって?」と尋ねれば、
「あいつら(会社)、こんなものでもくれてやれば喜んで働くと思ってるから・・・」と。

一緒にスウィーツを食べていれば、
「こういうの、食べないんだよな・・・」と言いつつ、私より先にまるっと完食。

知人のA氏はいつもこんな感じです。

「うん、美味しかったよ」とか、「あれは有り難かったな〜」とか、「嬉しかったよ」「楽しかったよ」というコメントはついぞ耳にしたことがありません。

それはそれでぜんぜんかまわないのですが、A氏はかなり損をしているな〜と感じてしまいます。

ご本人はいつも苦虫を噛み潰したような表情をしていて、幸せや喜び、安らぎからは程遠いからです。

A氏にとって、「どんなものごとも、どんな人々も、基本的に不十分であり、不満足であり、自分を決して幸せにすることなどできない」と確信しているようです。

そして、目のまえにやってきたものに対して即座に「不十分」というレッテルを貼りつけるがために、それらはもれなく不満や不足を引き起こします。

A氏に限らないのですが、私たちは「幸せとは、何か外側からやってくるものによってもたらされる」と信じているところがあります。それは、突然やってくるチャンスや、ことがうまく運んで手にする収入や、わくわく感を与えてくれる人物などです。

しかし、そもそも「幸せ」は特別な何かの登場によるものではありません。特別な何かに依存するならば、それが手に入らなかったり消え去ったりすれば、幸せとは無縁になってしまうからです。

彼の場合は、「ついに自分のお眼鏡にかなう素晴らしいもの」がやってきたあかつきには、ようやく自分は満足できるだろうと信じています。

しかし、残念ながらお眼鏡にかなうものが今後も現れることは期待できないでしょう。

それは満足なものが存在していないからではなく、十分さはすでにあるのですが、彼が瞬時に裁くことによってすべてを台無しにしてしまうからです。

何か目にすれば、すぐにジャッジしてしまうということは、「あるがまま」のそれしか存在していないものに対して、すべては自分の思い通りになるべきだ、という考えのあらわれです。

そもそも幸せは、そこに「完全さ、十分さを見たい」、「その存在を讃えたい、喜びたい」という「自分の決意」とともにもたらされるものです。

それは目のまえにやってきたもののあるがままを受け入れることであり、全面的に「イエス!」と言うこと。

目のまえのそのままを愛でること、喜ぶこと、尊ぶことであり、それ以外からは幸せも安らぎも満足も生じ得ません。

不足を見たり、文句をつけたり、そのままをよしとしないことは、不完全さを前提としているので、そこにあるはずの十分さ、幸せを見ることをすでに拒否してしまっているのです。

そもそも、目のまえにあるものはすでにそういうものであって、それ以外である可能性はありえません。それ以上でもなくそれ以下でもなく、もうそうなってしまっているのです。

そして、「それを受け入れる」という選択しか存在していません。

それしかないのだから、それで十分であり、それが答えなのです。

そうなってしまっているもの、それ以外である可能性のないものにに対して、今さらあれこれ言つことはなんの意味もなく、エネルギーのムダづかいとなり、ただ不十分さと不足感がつのるだけです。

しかし、あたかも他の可能性があるかのように架空のものと比べてしまうと、目のまえのものはすべてつまらない価値のないものになりさがってしまうのです。

たった今それしかないのであれば、いさぎよくそれに対してこころを開きましょう。それを受け入れて、それを愛でましょう。これが、幸せと安らぎと満足につながります。

このあるがままを受け入れる姿勢こそが、こころの安らぎ、幸せなのです。そして、受け入れることで、不満足感、不足感が癒やされてゆきます。

自分のこころがあるがままのものに幸せや安らぎを見ようとするとき、私たちはそれと同じものを外側の世界に見ることができるようになります。

自分のこころが安らかで愛のあるまなざしですべてを眺めるこころの習慣によって、不足感や無価値感、不満足さは影を潜め、すでにそこにある全体性、完全さ、豊かさとつながり、それを受け入れることができるようになるのです。



「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 / ヒプノセラピーカウンセリングリコネクション

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