気づきの日記「何でもかんでも否定していませんか? 〜答えは目のまえに〜」
私たちを苦しめたり、怖がらせたり、悩ませたりする原因とは何でしょうか?
「それは、いつも目のまえにぶら下がっているあの問題に決まっているでしょう!?」
「私のことを苦しめつづけるあの人ですよ! 」
「まったく思いどおりに運ばないあのことです!」
こんなふうに即答されるかもしれません。
「あのこと、あの人さえ変わってくれれば・・・」、そのような回答はどれも正解ではありません。
自分を苦しめている本当の原因は、自分自身に他ならないからです。
自分こそが、苦しみを作り出しつづけている張本人で、自分こそが変われば苦しみや恐怖や悩みから解放されるのです。
では、自分で自分を苦しめるというドSでドM な行為から、どのように抜け出すことができるのでしょうか?
それは、自分のなかに沸き起こってくる思考をやすやすと信じこむことを止めることです。
愛のない思考は、いとも簡単に安らぎや幸福感を破壊し、苦しみへ引きづりこみます。
どういうことかというと、たとえばクライエントさんを例にとってみましょう。
心地よくリラクゼーションしながらこころを探求し、こころのことを学ぶセラピーが終了しました。
そのとたんに、あるいはその最中かもしれませんが、こんな思考が湧き起こります。
「こんなことで本当に変われるのか?」
「何も起きていないように感じる」
「やっぱり何も効いていないにちがいない!」
そして、その思考によってそこまでのすべてを台無しにしてしまうのです。すべてはそのままでよかったはずなのに・・・。
この考えさえなかったら、起こることがそのまま問題を解決していたことでしょう。なぜなら、起こっていることこそがいちばんいいことであり、正解であるからです。
「あるがままの出来事」に裁きや価値判断という思考が介入するやいなや、すべては不完全で、不十分なものに変わってしまうのです。
そして、自分がそのように決めたので、まったくそのように体験することになりまってしまいます。
このような思考は特別な瞬間に登場するものではなく、じつは一日中うっすらとアタマのなかに流れているのです。そして、自分でもその思考に影響を受けていることに気がついていません。
何かしていても、「ああ〜、こんなことして何の意味があるのだろう?」とか、「私の人生、つまらない」「ダルイ」など、いつも疑問や否定をなげかけて、そこで起きているあるあるがままの体験を退屈でつまらないもの変えてしまいます。
このような思考を真に受けてしまうことで、一気にこの思考が唱える世界が自分のものになってしまうのです。その言葉さえなければ、それはただそうであって正解だったはずなのですが。
この思考の流れは決して止めることができないので、このようなネガティブな流れに巻き込まれないためには、思考のおしゃべりに意識的に気づいて、それを受け流すことが大切です。
先日もこんなことがありました。
通販で玄米を購入したのですが、届いた箱を開けてみたら胚芽米が入っていました。どうやら、クリックする商品を間違えてしまったようです。
するとすぐさま、「あ〜あ、失敗した!こんなにたくさんどうするの?」「ちゃんと確認しないから、やっちゃったね!」と悪魔が失敗感と罪悪感をあおります。(このように、イジワルは思考は自然と浮かんできて自分を責めるのです)。
しかし、それには耳をかさず(つまり、瞬殺し)、起きているそのままを静かに受け入れます。「これが来たということは、これが今必要なものなのだ!」と。
あとで胚芽米をいただきながら気づきます。「ああ、今年は猛暑で冷たいものをいただきすぎたから、固めの玄米よりもこちらのほうがお腹に優しくて正解だわ〜」と。
つまり、自分でそうしなくても宇宙の方が私を気遣っていちばんよい選択をしてくれている、ということがわかります。
私たちの思考は、たった今目のまえにある「これでオッケー、これで完璧、これこそがベスト」な現実をことごとく打ち砕こうとします。
そして、何もかもが不十分で、足りなくって、おもしろくないものに変えてしまうのです。その思考が浮かぶまでは、それは本当にそれでよかったはずなのに。
「起きていること」それがいつもベストであり、まさに自分にとっての「答え」そのものなのです。
だから、いつも意義を唱えて失敗感や罪悪感をもたせようとする思考をやんわりとかわして、あるがままをそのままベストな「答え」として受け入れましょう。
そのためには、自分のなかに流れているセリフに気づくようにし、それに対して無反応でいることです。
「ネガティブな誰かが何か言っている。全部くのウソだわ」、そのぐらいの気持ちでやりすごしてしまいましょう。
そのことが起こっているのなら、それこそが私にとっての「答え」そのもの! それをいつもアタマにおいておきましょう。