なかなかすいている時間にお花見散歩に出られず、もうすっかり散ってしまったかしら?と思っていた目黒川の桜並木。
このところの雨風にもたえて、まだみごとにお花をつけておりました。


しだれ桜はみずみずしい新緑とのコントラストがとてもきれいです。

ここからは一気に芽ぶいて、景色がいっぺんいたしますね。

なかなかすいている時間にお花見散歩に出られず、もうすっかり散ってしまったかしら?と思っていた目黒川の桜並木。
このところの雨風にもたえて、まだみごとにお花をつけておりました。
しだれ桜はみずみずしい新緑とのコントラストがとてもきれいです。
ここからは一気に芽ぶいて、景色がいっぺんいたしますね。
私たちのこころは、ほんとうの自分でないものを少しづつ手放しながら、本来の自己に向かう旅をしています。
本来の自己を解放することが目的なので、この旅の途上では自分でないものにひとつひとつ気づきながら、地道に手放してゆくことが主なお仕事といえます。
真の自分でないものに気づくためには、自分のこころに起こる痛み(抵抗)に敏感になることが大切です。
痛みこそがニセモノの自分のサイン、叫びです(真の自己は痛まないのです)。だから痛みは、まだ解放されていないこころのポイントをさし示してくれます。
その痛みは、日々の生活の出来事をとおして怖れや怒り、罪悪感などの感情としてあらわれます。
しかし、怖れや痛み、罪悪感に遭遇するとき、せっかく手放すべき感情が浮上しているにもかかわらず、私たちはなにか間違ったことが起こっているように感じてしまい、ふたたびその感情を抑圧してこころの奥深くにしまいこんでしまうことが起こります。
ひとりの人が人生のなかで体験する出来事は限られてるので、隠されている感情を浮上させて手放す機会も限られたものとなります。
その点、映画やドラマや演劇は自分が実際にその出来事を体験していなくても、ただ登場人物と心理的に同一化することで、自分のなかにあるさまざまな未解決の感情を浮上させることができ、手放すことができるのです。
しかし、感情を感じること(感情が乱れること)がよくないことであると信じていると、感情が波立ちはじめるとあわててこころを閉ざしてしまいます。
すると、せっかくの自分を解放するためのチャンスをのがしてしまうことになります。
無意識のこころのなかにはさまざまな感情のジャンクがたまっていて解放のときをまっています。
せっかく手放すために浮上してきても、感情が波立つのを怖れてしまうとやすはすと感情にロックをかけてしまうことになりかねません。
感情を制御しようとすると、怖がらなくてすむかわりに嬉しくもなくなります。感情はトップとボトムが一組になっているので、片方を制御しようとすると感じる気持ち全体がにぶくなってしまうのです。
そうなると、目にするものがモノトーン化し、体験がぼやけてしまうことになります。
自然の流れにのっていないものはよどみ、腐敗し、いつかはガス爆発を起こしてしまいます。
無視されて抑圧された感情は、あるとき自分でも制御ができないほどの怒りや怖れとなり、自分に襲いかかり、翻弄されてしまうようなことが起こります。
そもそも、感情は自分のなかをさらさらと流れてゆくもので、自分自身はそれをただ眺めています。
シャワーをあびているときに、水の流れが自分の皮膚の上を通過してゆくのを感じるように、その感覚を楽しむけれどそれに支配されることはありません。
しかし、感情を怖れている人は、シャワーの水をそのまま皮膚の上を通過させず、まるで自分がスポンジになったようにすべて吸収しぱんぱんになってしまい、自分がその水に支配されてしまうようなことが起きているのです。感情をふたたび抱えこんでしまうのです。
さらさら流れるのとためこんでしまうのは、なにが違うのでしょうか?
それは、感情をつかむかどうか、巻き込まれるか巻き込まれないか、の違いです。
巻き込まれてしまうのは、それに対して判断や比較、ストーリー、善し悪しをくっつけてしまい、自分個人のものとして内側に取りこんでしまったのです。
もし判断もせず、なにもコメントしなければ、それはただ過ぎ去ってゆくだけです。
ドラマや映画は、自分で経験すらできないさまざまな状況を擬似体験し感じることができます。それによって、自分の無意識のなかに押し殺してきた感情を浮上させることができます。
じつは、この無意識のなかに押し殺していた感情こそが、自分の身体や、まわりの人、そして自分の未来などに投影されて生きづらいストーリーを展開する原因となっていたのです。
せっかくそのような抑圧していた感情がドラマや映画で浮上し、気づくことができたのなら、あとはただ解放してあげるだけです。自分の邪魔をしていたものに、さよならする機会とすることができるのです。
そのためには、その思いや感情を、ただ価値判断やストーリーなしにまっさらなままに感じて、終わりにしてしまいましょう。
自分のなかをただ通りぬけさせてあげることで、それはついに消滅してゆくことができます。
そういった意味では、ドラマや映画の鑑賞は、自分の解放にとってとても時短となります。あとまだ何十、何百、何千も(?)転生して体験し浄化すべきだった感情を、一気に浮上させてきれいにすることができるからです。
感情が乱れるときこそ、こころはいらないものを手放そうと頑張っているときです。
だから、感情をこわがらず、ただ手放して感じて、流してあげる練習をしましょう。
浮上してきた感情をふたたび押し戻すことなく、ただあるがままに感じて終わりにしてしまいましょう。
感情に巻き込まれないためには、アタマ、想像力を使わないことです。からっぽになって感じることです。
自分のなかを感情が自由に流れるようにしてあげると、かつてこころが乱れていたような状況でも、安らかさのなかから静かに眺めることができるようになります。
そしてこころの静けさこそが、自分の目にする世界を穏やかなものにしてくれるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q: すべてのことは「必然である」と聞いたことがあります。もしそうであるなら、すべてがすでに決まっていて、自分は運命にあらがえず、縛られているコワさを感じます。
A: はい。すべては「必然」です。そして、すべては起こらなければならないようにしか起こらないようです。
それを怖く感じるのか、安心に感じるのか ・・・ たんに見方の違いによるものです。
起こることしか起こらない「運命」というものを、
エゴの見方で見るのなら ・・・ エゴは自分自身が最高指揮官になれないことでキケンを感じるかもしれません。自分を守りきれないと感じるのです。(いったい誰に何をされちゃうのでしょうね〜!?苦笑)
別の見方からすれば ・・・ 絶対的な存在(それは宇宙といってもいいし、神といってもいいし、源でもかまいません)の愛の法則にすっぽりと護られて、自分にとって幸せにつながることしか起こらない。そこには何のまちがいもない、ということです。
起こることが決まっている、つまり運命が決まっていることは、エゴにとっては何をされるかわからないキケンきわまりない状況であり、
愛というひとつの力が存在していると考えるときには、それはすべてから自分を護ってくれる安全の法則となります。
自分自身は勝手きままにやっているように見えつつも、ちゃんと守られている、つまり、お釈迦さまの手のひらでコロコロ安泰・・・という嬉しい状態なのです。
そして、その決められた運命というものも、じつはまだ変更可能なのりしろのあるフレキシブルなものでもあるようです。
ただ起こることに明け渡すことによって、そこに設定されていた障害物(カルマといえるもの)は取り去られ、より幸せなストーリーへと変わってゆくことができます。
だから、運命は決まっている、ともいえるし、フレキシブルだ、ともいえるわけです。
私たちが運命(あらかじめ決められたストーリー)に抵抗せず、こころを開いて受け入れるとき、カルマといえる傷障害は溶けさることしかできなくなります(抵抗がなければ供給エネルギーがなくなり、それは存在できなくなります)。
そうすると、そこで私たちが見ることになっている時間軸が変更されてゆきます。穏やかになってゆくのです。
だから、自分は大きな愛にあふれた意図にすでに護られていることを信頼して、起こってくることをただリラックスして受け入れることによって、より大きな存在の愛を感じる現実を目にすることができるのだと思います。
最近、友人のオススメで観た韓国ドラマ。
そのドラマのタイトルは「It's OK to Not be OK! 」。米国人の友人に教えてもらったので横文字ですが、この意味は「大丈夫でなくても、大丈夫!」。
まさに、人生とはいつも問題だらけで、とても大丈夫とはいえないけれど、それでも大丈夫なんだ、というもの。
できごとのひとつひとつがそこにかかわる一人ひとりを癒し、ほんとうの自分へと導き、全員がよりハッピーになれる 、だから起こることに身をまかせていればいい・・・そんなことを教えてくれるドラマでした。
起こることの外観にエゴはいつも震撼するけれど、じつはエゴそのものが崩壊しそうになっているのでちぢみあがっているのです。
だから怖れを感じてもかまわない、ということ。ほんとうの私がコワがっているのではないのだから。怖がっているのは抹殺されそうになっているエゴそのものなのです。
怖いけれど、それでも抵抗せずにただ身をまかせて流れとともに進んでゆくことで、必ず「ああ、そういうことだったのか!」と安心を感じるとともに、いつも護られていたこを実感するかもしれません。
運命とは、神さま(宇宙、源)からの愛、ご加護そのもの。
だから、力を抜いて、ただ流されて、なにが起こるか見てみましょう。「おもしろいから、これからどうなるか見ててみよう♡」
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
韓国コスメに詳しいお友だちが、ときどきさし入れをしてくださいます。
まるで、「どっかから見てた?!」というぐらい、今の私にどストライクなものばかりなのです。
そして、美容大国韓国コスメって、シャレているし、お肌にも優しくってとっても使いやすい。
今回は口紅とリップスクラブ、そしてスキンモイスチャライザー♪
(唇もお肌もパッサパサになっていたのが、もろバレでした?!汗)
なにか春用のコスメが欲しかったところなので、このラインナップもリップの色味もハマりまくりです♡
女子にとってコスメって、もちろん使うのも嬉しいけれど、ただながめているだけでワクワクするものです。
今年は急に春らしくなり、もう今にも桜が咲きそうですね。
春均分でさっそく使いま〜す♪ いつもありがとう♡
中目、代官山のカフェは、コロナ禍ですっかり顔ぶれが入れかわりました。
そんななか、お散歩をしていたら生モンブランの写真をかかげているカフェが! 食べた〜い♡
そのうち来てみようと思っていたところ、お友だちとお茶する機会があったのでお出かけしてみました。
すると、生モンブランのビジュアルが苺スウィーツに変わっているではありませんか!
いやな予感がしたら、案の定、メニューにもモンブランはなく ・・・ どうやら季節でスウィーツが入れかわる模様。二人ともアタマはすっかり「生モンブラン」でだったのですが・・・
しかたなしなし(泣)苺ショートをたのんでみたら、
これが予想外のヒット♡
スポンジがうっすらでフレッシュな香りのいい苺とほどよくコクのあるクリームを味わっているような感じで、今まで食べた苺ショートのなかでいちばんでした。
禍転じて福となす(!?)ふたりとも大満足なお茶タイムとなりました♪ @神乃珈琲 代官山さん
こちらのお店、パンケーキもとってもおいしそうでした♡ 次回は是非!
帰り道、満開の桜に出会いました。
桃の花のような鮮やかなピンク色。紅山桜でしょうか?しばし見とれてしまいました。
その先の角には、白い沈丁花がいい香りをただよわせていました。
わあ、春♡ 嬉しくなります ( ・◡・ )♫
お花があるだけで、お部屋の空気が変わります。
お花は、
「私を見て、見て」ともいわないし、
「私ってきれい?」ともきかないけれど、
ほほえんで見つめてしまう存在。
それは、ただ与えるだけのものの引力ですね。
マンダリンオレンジ、サーモンピンク、カナリアイエロー・・・
私の好きな色のブーケをありがとうございます♡
暦がすっかりわからなくなっていたこのごろですが、
冬眠中に目覚ましがなったクマのように、いただいたお菓子を見てハッといたしました。
まだ先だと思っていたけど、お雛さま !?もう春だわ! と。
ミニお雛さまを出すにはちょっとおそいので、練りきりのお雛さまを愛でさせていただきます。(^-^)
かわいいです♡ ありがとうございます♡
冬のあいだは暖かなオレンジ色のアイシャドーを愛用していましたが、春のひざしにあわせて軽やかなミント色にでもしようかな〜・・・ と春気分がもりあがってきました♪
が ・・・ そのまえに、巣穴から出るためにはダイエットも必須かも〜?! (^^;;
相手の表情、相手のとる動作や行動、相手の発する言葉 ・・・
これらから私たちは相手のことを理解できたと思っているし、状況も判断できると思っています。
なぜなら、こどものときから実験や観察という視覚に頼る情報集めを教えられてきたので、目にできるものこそは真実を教えているのだ、と信じてきたからです。
こどものケンカの常套句も、「だったら証拠を見せてみろ!」と目に見えるものを要求します。(覚えあります?!)いつも、見えるものが真実の証となってきたのです。
でも ・・・ そもそも、ひとりひとりの目に映っているものって、共通でもなければ普遍的なものでもありません。各々にとってまったく違うのです。
同じ道をしばらく一緒に歩いて、この道に何があったのかを尋ねてみてください。
ある人は散歩中の犬に気づくかもしれないし、またある人はお店にディスプレイされたお洋服が目にとまるかもしれません。お洋服に気をとられた人にとって、犬は存在していないも同然なのです。
そんなふうに、私たちは真実を見ている、というよりは、自分にとって好ましいもの、興味をひくもの、都合のいいものしか見ていません。
そうなると、人の表情にも、行動にも、自分のおなじみのものしか見えてこないわけです。
もし、自分にとってのおなじみが不愉快な感情であれば、きっと世の中は不愉快な人ばかりとなることでしょう。
自分の都合だけで「目にしているもの」の向こうがわに、ほんとうの意味が隠されています。
それが見つけられないと、ずっと欺かれたままとなります。
どんなふうに欺かれるかというと ・・・ 華やかな包装紙に包まれたおっきなモノは、華やかだから、大きいから、きっとステキなものに違いないと思って持ち帰ると ・・・ じつは中身はカラッポ、いえ、悪くすればゲジゲジやムカデや気持ち悪いものでいっぱいかもしれません。
外観と中身(そのものの意味)はまるで一致しないので、外観だけで判断するとこんな間違いをくりかえします(いいモノを選んだつもりが、なぜかいっつも最悪だ・・・という)。
でも、先入観という邪魔ものがいなくなり、外観にだまされなくなると、自分とそれがひとつになることができるため、それがおのずと中身を明かしてくれるようになるのです。
先入観さえなくなれば、外観という目に見えているものをとおりこすことができ、核心に達することができます。
そうすると、人のこころの深いところを理解できるようになり、何が起きているのかを知ることができます。
どなりちらしたり暴力をふるう人を、私たちは横暴で強い人だと感じてしまいがちですが、
目に見えていることを手放して、先入観をもたずにひとつになってみると、その人がいかに怯えて、こころに闇を抱えているのかを感じとれるかもしれません。コワいからこそ、先に攻撃していたと気づくかもしれません。
一見、冷静で静かな人も、ひとつになって感じてみると、こころの深いところに怒りや憎しみが横たわっていることに気づくかもしれません。
目に見えるものにすぐに反応するのではなく、先入観をもたずにひとつになって感じることをしていると、ほんとうのことが見えるようになってきます。
そして、さまざまなことを深く理解できるようになり、はじめて自分のこころも正しく理解できるようになります。
自分のこころ? そんなのとっくに理解している、って?!
いえいえ、じつはいちばんわかっていないのは自分自身のこころです。
私たちは自分自身を癒すために(癒しはここに存在している全員にとって必須です)、ひとつひとつ自分のなかに置きざりにされた悲しみや怒りや怖れや絶望に気づき、それを意識して受けとめたら、ハイヤーセフルに手渡して取り去ってもらう必要があるのです。
人のこころのなかにあるものに気づき受けとめはじめると、自分のこころが明かされるようになり癒しが加速します。
なぜなら、私たちはひとつのこころだから。癒しはつねに同時に進行してゆくのです。
すぐさま目にしたものにおなじみの判断を下すのではなく、こころをカラッポにして、目にしているカタチの向こうがわまで見られるようにいたしましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
このところ、お友だちオススメ作品の鑑賞にいそしんでいます。
アニメだったり、韓流ドラマだったり・・・ いつもの自分とはチョイスの視点がちがい、どれも新鮮でわくわくどきどきな作品ばかり。
そのなかからの一本。
ひょんなことからネコになるすべを覚えてしまった女の子。
ネコに姿をかえて向かう先は、大好きな男の子の家。
学校でその男の子と面とむかうと、ついつい言葉ばかりが先走り、自分らしくない自分を演じることに ・・・ そして、相手も自分も傷つけてしまうのです。
ネコはよけいなことは口にせず(できず)、ただ静かによりそうのみ。彼もふいに姿をあらわすそんなネコを特別に可愛がっているのです。
言葉って、気持ちを伝達するためにあるはずなのに、はたしてどこまでちゃんと本当の気持ちを伝えられていることか? ・・・
もしかすると、ほんとうの自分がこころもとなくて、そんな自分を防御せずにはいられずことばを使ってしまっているのかもしれません。
便宜上必要なことと、ほんとうの本心のみを口にすると決めたとしたら、きっと言葉はもっともっと少なくなるだろうし、ことばがないからこそスッとつながりあってしまう体験ができるのかもしれません。
このネコちゃん、なんとも可愛いらしいこと♡ 真っ白でふわふわで、すいこまれそうな碧眼です。
そして舞台になっている街の風景も、どこか懐かしくって癒されます♡ (→予告をみる)
PS これを観たあと、ネコちゃんが街をウロウロしているとつい気になってしまいます。
あっちでお腹出して寝転んでいるネコの正体は、じつは人間のオジサン? とか、あのシュッとした黒ネコはイケメン男子の仮の姿?!とか(笑)自分も知らないうちにネコになっていりして・・・存在しているだけでOKな体験ができる?!
空気が乾燥する季節ですね〜。ちょっとでもお手いれをサボろうものなら、お肌は一気にカサカサパサパサです。
乾燥するのはお肌だけではありませんよ〜。
ココロだってお手入れを怠ると気がつけばパサパサになります。だから、お肌と同様に気にかけてあげなければならないのです。
お肌のお手入れは時間をかけたり高い美容液をつけたりとけっこうな投資をするものの、ココロのお手入れに関してはほぼ無頓着。「ココロに時間やお金をかける?そんな必要なくない?」ぐらいに思っていたりします。
けれど米国などでは、ココロに時間やお金をかけるのはそんなに珍しいことではないのです。みなさん、ふつうにセラピーにかようし、先日 YOSHIKIさんもアメリカでは定期的にセラピーを受けているとお話されていました。
お肌がきれいになると気分があがるように、幸せのみなもとであるココロをスッキリさせれば幸せ度は自然とアップするのです。
ココロが荒れてくるとどうなるのでしょう?
もちろん幸せ感を感じられません。顕著な反応としては、「かわいそうな私」「どうせ○○な私」「つまらない私」という自己否定の考えにひたりがちになります。
「かわいそうな私」の変化級としては、「あいつのせいだ」という被害者意識があります。なにを見ても、自分を傷つける敵に思えるのです。
ココロが荒れてしまうと、何ごとに対しても正しく認識できなくなるからです。すると、何を見ようと、何を聞こうと、何を体験しようと、自分は劣っているとか、攻撃にさらされている、ととらえてしまうのです。
ほんとうは苦しさの原因はその状況などではなく、ココロが荒れてヒリヒリしているから苦しいのに ・・・。
自分の痛んだココロにあるつらい考えこそが、自分に刃をむけてしまうのですね。
いつなんどきでも、どんな状況でも、自分を傷つけることができるのは自分の考えだけです。
まっさらである状況、ものごとに対して、自分が下している考え自体が優しくないのです。
コワガリさんを見ていると、きまってものの見方がかなりコワイです(汗)。おそらく想像力が旺盛なのですが、方向性が悲惨な方に向かってしまっているのが原因です。
「私はダメだ」「私にはできない」「私は嫌われている」などなど・・・ つらく、悲しく、厳しい考え方こそが、自分の価値をおとしめるし、自分を地獄に突き落とすことができるのです。
自分自身、気分がよくないと感じるときには、いったいそのものごとや状況に対して自分はどんな考えをしているのかを調べてみましょう。
そして、その考えが100%ほんとうのことなのか、真実なのか、正直に調べてみましょう。
立ち止まって検証するクセをつけてみると、自分の考えって正しくなどないことに気がつきます。
じつはその考えで、「かわいそうな私」に執着して、さらにもりあげて、「ダメな私劇場」を演じることを楽しんでいたことに気づくかもしれません。
お肌のお手入れとちがってココロのお手入れで大切なことは、なにかをつけ足してあげることではありません。どっかから借りてきた自信も自己愛もいらないのです。
ひたすら邪魔なものをとり去るだけです。
つらく厳しい考えさえとり去れば、その下には光り輝く愛と安らぎと豊かさのみなもとが現れてきます。
そこには「自信がある」とか「ない」とかの行ったりきたりもないし、「愛ある自分って」という疑問もありません。
ただ存在の安らぎと平和と充足があるだけです。
それをおおっているものをひたすらとり去ってあげることこそがココロのお手入れです。
そのために、イヤな気分を生みだした自分の考えに対して、正面から向きあってしっかりと監査を入れてみましょう。
何度もくりかえしていると、かわいそうな自分を演じようとしている自分に素早く気づき、その手が通用しなくなってきます。
その手を使わなければ、ただ本来の自分の価値のすべてが自然と戻ってくるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
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